一市民の知られざる抵抗
~~~~~~~~~~
ことばということばが
みんな、犯されて
喪くしたよ
いじらしいはにかみを
楚々とした処女性(おぼこさ)を
(「しかしのこっているものを」から P63)
~~~~~~~~~~
宮本正清詩集『焼き殺されたいとし子らへ』みすず書房
フランスの作家ロマン・ロランの翻訳者として知られ、京都にロマン・ロラン研究所を設立した仏文学者・宮本正清の第2詩集である。亡くなる前年の1981年にみすず書房が出したもので、戦時中に書かれた作品を収録した。仏文学者・新村猛の「新村重山文庫」の個人蔵印が押されている。
宮本と親交のあった医師の松田道雄は、本書の意義を跋文に次のように記している。
戦争が残虐で愚劣で
人間の尊厳に対する最大の侮辱であることは、
理性をもつものにはわかりきっている。
少数の支配者たちが戦争をはじめようとするとき、
戦争の残虐と愚劣とを知っている
理性のある人がいないことはなかった。
しかし、そういう人たちが、
ごく少数の英雄的な抵抗者のことばをきかないで、
結局は戦争に加担するのはなぜか。
それは支配者のかかげる「理想」を
気分としてうけいれるような情勢のつくられることをみのがし、
支配者のとなえる滅私奉公に順応してしまうからである。
戦争の残虐をどれほど印象づけても、
それだけで戦争をふせげるものでない。
支配者の思想をどれほど「学問的」に批判しても
支配者のつくりだす画一的な情報の網を
はらいのけることはできない(中略)
平素残虐をのろった男の作家は
戦争になれば従軍記者になり、
心のやさしさをうたった男の詩人は
戦勝を「ことほぐ」詩をつくった。
あるいは、詩をつくることをやめた。
わずかに与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が
抵抗の心をうたったにすぎない。
日本の文学のそのような伝統のなかに、
宮本正清さんは『焼き殺されたいとし子らへ』によって、
新しい大きな記念碑をくわえられた。
それは支配者の押しつけてくる公のなかで、
私の世界をまもりつづける。
公の名において残虐と愚劣とが底知れずひろがるなかで、
ささやかな私の世界にだけ
人間性が生きつづけていることを証しする。
「家庭の瑣事、市井の雑事」といわれているものが、
人間にとってどれほど大切なものであり、
その中で心のやさしさがはぐくまれるものであることを
『焼き殺されたいとし子らへ』はおしえる(中略)
私をまもりきることの困難は、
宮本さんが終戦のまぎわ
六十一日の獄中生活を強いられた事実がしめしている。
日常を固執することによって、
やがて英雄的でもあらねばならぬということ、
それは宮本さんの『ジャン・クリストフ』の
読みの深さにつながるものであろう(P153~156)
過去の戦争の悲惨さを次の世代に語り伝えるだけでは、再びの悲劇を防ぐ十分な力とはならない。それだけでは「支配者のかかげる『理想』を気分としてうけいれるような情勢のつくられる」のを防ぐに足りないからだ。これは戦後日本の平和教育の大きな反省点だと思う。
生きていれば、争いを招くウイルスに感染することもある。感染していることに気づかないことの方が多いのではないか。感染しても発症しないようにすること、万一、発症しても重症化しないうちに治療する術を各自に身に付けさせることが、実効性ある平和教育の目標だと考える。
【同書から】
「詩は私の魂のためいきであり、
涙であり、ときには歓喜でもある。
詩は作られはしない。生れてくる。
湧き出る清水である」(全 P1)
「いってしまったね
みんな
みはらしのいい丘のうえに
みてくれのいい舞台のうえに
(ぐらぐらのボール紙の?)
英雄になるためだ
すてろ、すてろ
まごころや童心を
ほらの貝は
よく鳴るのだ
うつろなればこそ
いってしまったね
みんな
みはらしのいい丘のうえに」
(「ゆめであれ」全 P61)
「『お父たん、戦争はおしまいになったねぇ』
『ええ、戦争はおしまいになりましたよ、周坊!』
父に手をひかれて、たよりない足どりで
京都駅まえの広場をよこぎりながら
二歳と十ケ月の周作がとつぜん云った
そうだ、周作よ、戦争はおしまいになったのだ、
お陰でお前の小さい手をひいて今宵
この広場をよこぎることのできる父なのだ
六十日の牢屋の生活から放たれたのだ
意味も知らずにお前の口から出たこの言葉が
お前にもわたしにもどんなにおそろしいことか
わたしたちの家庭にとって!
正しいことをおもい
美しいものを愛したゆえに
お前のお父たんは牢屋につながれ
お前たち幼いものにもさびしいお留守の日がつづいたのだ
『戦争はおしまいになりましたよ、周坊!
そしてこの広場にあかりがかがやいているのです!』
(「戦争はおしまいになった」全 P143~145)
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ことばということばが
みんな、犯されて
喪くしたよ
いじらしいはにかみを
楚々とした処女性(おぼこさ)を
(「しかしのこっているものを」から P63)
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宮本正清詩集『焼き殺されたいとし子らへ』みすず書房
フランスの作家ロマン・ロランの翻訳者として知られ、京都にロマン・ロラン研究所を設立した仏文学者・宮本正清の第2詩集である。亡くなる前年の1981年にみすず書房が出したもので、戦時中に書かれた作品を収録した。仏文学者・新村猛の「新村重山文庫」の個人蔵印が押されている。
宮本と親交のあった医師の松田道雄は、本書の意義を跋文に次のように記している。
戦争が残虐で愚劣で
人間の尊厳に対する最大の侮辱であることは、
理性をもつものにはわかりきっている。
少数の支配者たちが戦争をはじめようとするとき、
戦争の残虐と愚劣とを知っている
理性のある人がいないことはなかった。
しかし、そういう人たちが、
ごく少数の英雄的な抵抗者のことばをきかないで、
結局は戦争に加担するのはなぜか。
それは支配者のかかげる「理想」を
気分としてうけいれるような情勢のつくられることをみのがし、
支配者のとなえる滅私奉公に順応してしまうからである。
戦争の残虐をどれほど印象づけても、
それだけで戦争をふせげるものでない。
支配者の思想をどれほど「学問的」に批判しても
支配者のつくりだす画一的な情報の網を
はらいのけることはできない(中略)
平素残虐をのろった男の作家は
戦争になれば従軍記者になり、
心のやさしさをうたった男の詩人は
戦勝を「ことほぐ」詩をつくった。
あるいは、詩をつくることをやめた。
わずかに与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が
抵抗の心をうたったにすぎない。
日本の文学のそのような伝統のなかに、
宮本正清さんは『焼き殺されたいとし子らへ』によって、
新しい大きな記念碑をくわえられた。
それは支配者の押しつけてくる公のなかで、
私の世界をまもりつづける。
公の名において残虐と愚劣とが底知れずひろがるなかで、
ささやかな私の世界にだけ
人間性が生きつづけていることを証しする。
「家庭の瑣事、市井の雑事」といわれているものが、
人間にとってどれほど大切なものであり、
その中で心のやさしさがはぐくまれるものであることを
『焼き殺されたいとし子らへ』はおしえる(中略)
私をまもりきることの困難は、
宮本さんが終戦のまぎわ
六十一日の獄中生活を強いられた事実がしめしている。
日常を固執することによって、
やがて英雄的でもあらねばならぬということ、
それは宮本さんの『ジャン・クリストフ』の
読みの深さにつながるものであろう(P153~156)
過去の戦争の悲惨さを次の世代に語り伝えるだけでは、再びの悲劇を防ぐ十分な力とはならない。それだけでは「支配者のかかげる『理想』を気分としてうけいれるような情勢のつくられる」のを防ぐに足りないからだ。これは戦後日本の平和教育の大きな反省点だと思う。
生きていれば、争いを招くウイルスに感染することもある。感染していることに気づかないことの方が多いのではないか。感染しても発症しないようにすること、万一、発症しても重症化しないうちに治療する術を各自に身に付けさせることが、実効性ある平和教育の目標だと考える。
【同書から】
「詩は私の魂のためいきであり、
涙であり、ときには歓喜でもある。
詩は作られはしない。生れてくる。
湧き出る清水である」(全 P1)
「いってしまったね
みんな
みはらしのいい丘のうえに
みてくれのいい舞台のうえに
(ぐらぐらのボール紙の?)
英雄になるためだ
すてろ、すてろ
まごころや童心を
ほらの貝は
よく鳴るのだ
うつろなればこそ
いってしまったね
みんな
みはらしのいい丘のうえに」
(「ゆめであれ」全 P61)
「『お父たん、戦争はおしまいになったねぇ』
『ええ、戦争はおしまいになりましたよ、周坊!』
父に手をひかれて、たよりない足どりで
京都駅まえの広場をよこぎりながら
二歳と十ケ月の周作がとつぜん云った
そうだ、周作よ、戦争はおしまいになったのだ、
お陰でお前の小さい手をひいて今宵
この広場をよこぎることのできる父なのだ
六十日の牢屋の生活から放たれたのだ
意味も知らずにお前の口から出たこの言葉が
お前にもわたしにもどんなにおそろしいことか
わたしたちの家庭にとって!
正しいことをおもい
美しいものを愛したゆえに
お前のお父たんは牢屋につながれ
お前たち幼いものにもさびしいお留守の日がつづいたのだ
『戦争はおしまいになりましたよ、周坊!
そしてこの広場にあかりがかがやいているのです!』
(「戦争はおしまいになった」全 P143~145)
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