詩人としての在り方

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詩人というものは
どんぐりの背比べに終ってはつまらぬのである(中略)
千年間不出の詩人たるにはどうしたらよいかを、
先ず考える義務が、詩を作る者にはあるのである。
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詩人・高橋新吉(1901~1987)の自筆原稿である。400字詰めの原稿用紙4枚に書かれている。ダダイズムから仏教や禅に向かい、「超越の詩人」「禅ポエムの詩人」と呼ばれた新吉が、詩とどのように向き合い、詩人としてどうあろうとしていたのか、決してガツガツはしていないが、燃え尽きることのない健全な野心が読み取れるようで興味深い。

【詩の教室】

高橋新吉

F市の中学校から雑誌型の四十頁ほどの詩集を送ってきた。
生徒の作品が百数十篇と、「詩の教室」と題して
Aという教師が編集後記を書いている。
詩集を読んで、よいと思った作品名と、
批評を書いてくれと別に手紙が添えてあった。
私は一通り目を通したが、短い作品が多く、
中には少年らしい心の動きが正直に表現されていて、
面白く思ったものも二三にとどまらなかった。
しかしどれがよいとは迂闊には答えられぬと思ったので、
A先生が、「詩の教室」の中で引用している
「1.くもが巣をはっています。
 2.くもがサーカスをしています。
 この二つの文のうち、動作がはっきりするのはどちらでしょうか、
そして素材と感動が心の中で燃えて、
燃えたその内面が上手に表現されているのはどちらでしょうか。
だれでも2だと答えるでしょう。その通りなのです」と
書いているところが目についたので、
私は1.の方が詩の言葉としてよいと思うと
アンケードに書いて出した。

するとA先生から葉書が来た。
それには次のように書いてあった。

「御批評早速給わりありがとう存じました。
先生の御批評が一番反響を呼んで、
反対するもの賛成する者、
放課後まで論議し続けました。
拙稿「詩の教室」は
確かにレトリックの面を強調し過ぎたようで、
詩法以前の批評精神について
あまり語っていませんでした――」

私は、くもがサーカスしています。という言葉は、
形容に誇張があって、いやみに思ったのだが、
使い方に依っては此の一文を生かすことも
不可能ではないとしても、
甚だむつかしいと思ったのである。
くもが巣をはっています。というのは、
見たままを書いただけだが、
これだけで、詩と言ってもさしつかえないほど、
まちがった表現ではないと思ったのである。
生徒の作品の中で、
私のよいと思ったのは、
1.の文のような
嘘のない素朴なリヤリズムの詩であるので、
A先生のように、2.をよいとすると、
変態的な空想や、歪んだ思考を芽生えさすことになって、
教育上悪い結果を招きはしないかと思ったのである。

どちらがよいとも厳密には言えないことであるが、
A先生の詩の感覚や基準が、
現代流布されている普通の詩以上には、
一歩も出ていないもので、
少し安易すぎる教え方だと思ったものだから、
わざと反対の意見を述べたのだが、
此の私の批評に対して、
生徒達が二派に分れて議論し合ったことは、
想像しても愉快なことである。
なぜなら、物事を否定したり肯定したりすることが、
詩作の第一歩を踏み出すことだと言えるからである。

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最近は小学生も盛んに詩を作っている。
児童詩の雑誌なども出ているが、
綴方の文章を短くしたようなもので、
大人の詩とは勿論内容がちがっているけれど、
新しい詩の一つの在り方として、
一頃の童謡などよりは純粋さを深めているように見える。
又サークル詩が各職場や地域毎に作られていて、
アンソロヂーなども沢山刊行されているが、
これは学校を卒業して、働いている成年や、
ブラブラしている青年が多いのである。
平均して、詩が年と共にうまくなって、
技巧的には専門の詩人に劣らぬ人達も現われるようになった。
都会にいても田舎にいても、詩の勉強はやれるので、
努力次第で、一定の水準に達することは容易だが、
さて詩人というものは
どんぐりの背比べに終ってはつまらぬのである。
極端に言えばそれは詩人とは言えぬのである。
万人に傑(すぐ)れたるを傑(けつ)という
というような言葉があるが、
同じ詩を作る人間の中でも、
最も傑出したよい詩を作らなくては、
本当は詩人とは言えぬのである。
だから詩人位自惚の強いものはないが、
千年間不出の詩人たるにはどうしたらよいかを、
先ず考える義務が、詩を作る者にはあるのである。

※旧字、旧仮名は現代表記にあらためた。