自分自身であること
~~~~~~~~~~
偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
お前のすべてを注いでなせ
いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
高きに生きているからだ
(「偉大であるためには」全 P110)
~~~~~~~~~~

フェルナンド・ペソアは1888年6月13日、ポルトガルの首都リスボンに生まれた。1908年からリスボンの貿易会社のために英文や仏文の商業文を作成する仕事に就き、1935年11月30日に没するまで、その仕事で得られる収入を生活の糧としていた。
本書の訳者である池上岑夫氏は「ペソアがすぐれた詩人であるのは、現代社会が生んだ人間の抱く問題を凝視しそれを詩のかたちで定着させたばかりでなく、現代人の『無力』をその根源まで見抜き現代人の在り方をよしとする虚構をあばきそれを解体したからである」(P180)と評している。こうしたタイプの詩人は、同時代に評価されることは少ない。ペソアも生前は限られた理解者しか持てなかったが、現在では20世紀前半の欧州における傑出した詩人の一人として評価されているという。
ペソア最大の特徴は、3人の「異名者」の存在だろう。異名者とは、ペソアの中に生まれた別人格の3人の詩人、自然詩人アルベルト・カイエロ、異教的・古典的詩人リカルド・レイス、ホイットマン流の大胆な詩を得意とするアルヴァロ・デ・カンポス――を指す。彼らは単なるペンネームの使い分けではなく、性格も略歴も異なる人間としてペソアの中に存在していたという。
彼ら異名者は「本名の詩人が創りだした一人の完璧な人間」であり、彼らの詩は「劇作家の作品に登場するそれぞれの人物の科白のごときもの」(P176)だとペソアは説明している。1人の詩人の中に別人格の詩人が3人も同居し、それぞれの詩的傾向をぶつけ合うことなく共存できたことに驚く。生命の多面性、無限の可能性を感じさせる。
「根本的な形而上学的思想をもたぬもの、つまりたとえささやかであってもよいのだが、生の重大さとその神秘にたいする思想の認められないもの、僕が不誠実と呼ぶのはこうしたものなのだ」(P178)という言葉通り、ペソアと異名者の詩は、存在することの神秘的な重大さを鋭く意識した人生観で貫かれている。
【本書から】
「さながらベッドの上のように
道で遊ぶお前 猫よ
ぼくはお前の幸運を羨む
あらためて幸運と呼べぬほどのものだから
石も人間も支配する絶対的な掟の
お前は忠実な下僕
お前はすべての動物にある本能を持ち
知覚するもののみを知覚する
お前は幸福だ そうしたお前こそお前だからだ
お前は無なるもの その無なるものこそお前のものだ
ぼくはぼくが見えながらぼくと共にあらず
ぼくを知りながらぼくではないのだ」
(「さながらベッドの上のように」全 P23)
「闇のなかを風が吹き荒び
大きな音がいつまでも続く
ぼくにはできない
思考をやめることだけは
魂には暗闇があるようだ
理解への希求から生まれる狂気が
吹きながらしだいに
大きく成長する暗闇が
自由になれぬまま
闇のなかを風が荒れ狂う
ぼくは思考から逃れられない
風が大気から逃れられないように」
(「闇のなかを」全 P28)
「栗色の髪の幼い児が
道の中央に倒れている
内臓はとび出し
手に握られた紐の先端に
意識からすでに消えた電車が転がる
顔は潰れ いまは血とそして
無なるものにかわり
ちいさな魚が光る
―子供たちが浴槽に浮かべる魚―
道の辺(ほとり)に
道のうえに夕闇が迫る
遠くではなお一条の光が
未来の創造を金色に染める……
だが少年の未来は?」
(「激しい爆撃のあと 我われは
その村を占領した」全 P34~35)
「わたしは世界を信じる 雛菊を信じるように
世界が見えるからだ だが世界について考えたりはしない
考えるとは理解しないこと……
世界はつくられたのだ 世界について考えるためでなく
(考えるとは眼を病むことだ)
世界を眺め そのまま受け容れるために……
わたしに哲学はない あるのは感覚だ……
自然について語ることがあっても それがなにであるか知っているからではない
愛しているからだ わたしが自然を愛するのはそのためだ(中略)
愛するとは永遠に純粋であること
そして純粋であるとは 考えないことにほかならないのだ……」
(「わたしの視線は」から P46~47)
「陽光のもとで 目を閉じれば
太陽とはなにかわからなくなり
太陽に暖められたあれこれの事物を考えるようになる
だが眼を開ければ 太陽が見え
もはやなにも考えられなくなる
太陽の光はいかなる哲学者の いかなる詩人の
思想よりも価値があるからだ
太陽の光は己れの行為のなんであるかを知らぬ
だから過つことなくすべての人にあまねく優しいのだ」
(「なにも考えぬことには」から P49)
「事物でわれわれに見えるのは事物そのもの
ある事物が存在するとき なぜそれとべつなものが見えようか
見ること聞くことが 見ること聞くことであるとすれば
見ること聞くことが なぜ錯覚することになろうか
本質的なことは見ることを知ることだ
考えることなく見ることを
見ているときは見ることを
そして見ているときは考えず
考えているときは見ないことを
だがそのためには(悲しいことに われわれは魂を装ってしまっている)
それには深い修練が必要だ
学びとらねばならぬのだ 知識を捨てることを
そして詩人たちが星を永遠の修道女に喩え
花をただ一日の命しかない篤信の悔悛者と呼ぶ修道院
だが星は星よりほかのなにものでもなく
花もまた花であり
だからわれわれは星と呼び 花と呼ぶ修道院の
自由のなかに身をゆだねることを
(「事物で」全 P60~61)
「己れが己れであり 見えるもののほかなにも見ないことのなんと困難なことか」
(「陽光が」から P63)
「(主よ 幸いにもわたしは善き人間ではありません
わたしは正直な利己主義者なのです
それと気づかぬまま ひたすら咲き
いちずに流れて
定められた道を歩む花や川のように
この世界における使命は唯ひとつ それは
その使命は――澄明に存在すること
それについて思いをめぐらすことなく そうあることなのです)」
(「昨日の夕暮れ」から P67)
「事物の持つ唯一のかくされた意味 それは
いかなるかくされた意味も事物は持たないということだから
どんな奇異なことよりも
どんな詩人の夢よりも
どんな哲学者の思想よりも思いがけないのは
事物は見たとおりのものにほかならず
理解すべきものはなにもないということだ
そうなのだ わたしの感覚が自ら学びとったのだ それは――
事物に意味はなく あるのは存在
事物そのものが事物の持つ唯一のかくされた意味ということ」
(「事物の神秘」から P68~69)
「わたしがどんな人間であったか語るのは易しい
わたしは見た 狂人のように
事物を愛した いかなる感傷もなく
果せなかった望みはなにもない 盲(めし)いたことがなかったから
聞くことさえ見ることに付随する行為にすぎなかった
わたしは学んだ 事物は実在したがいに異なることを
それをわたしは理解した 頭でなく眼で
頭で理解することは事物をすべてひとしいと見なすことであろう
ある日わたしは子供のように睡くなった
わたしは眼を閉じて睡った
そしてわたしはただ一人の自然詩人だった」
(「わたしが死んでから」から P78~79)
【リカルド・レイス】
「己れの運命を歩め
己れの草木に水を注げ
己れの薔薇を愛せ
あとはすべて
お前とは無縁な木ぎの影だ
現実は
常に
われらの望むものとさしてかわらず
われらにひとしいのは
常にわれら自身だ
ただ一人で生きることは楽しく
単純に生きることは常に
偉大にして高貴だ
苦しみは祭壇におけ
神がみへの供物として
人生を遠くから眺めよ
けっして人生を問うな
人生はなにも
答えられぬ 答えは
神がみを超えてあるのだ
心静かに
オリュンポスを真似よ
心のなかで
神がみが神がみであるのは
自己の存在について思考することがないからだ」
(「己れの運命を」全 P103~104)
「偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
お前のすべてを注いでなせ
いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
高きに生きているからだ」
(「偉大であるためには」全 P110)
「私のひとつの行動が
数えきれぬほどの蟻を傷つけ殺したら
蟻はそれを神なるものの業ととるだろう
しかし私にとって私は神なるものではない
このようにおそらく 神がみにとって
神がみは神がみではないだろう
私たちにとって神がみが神がみとなるのは
私たちより大きいからにすぎぬだろう
確かなことがなにであれ
神がみと信じているものにたいしても
おそらく根拠なき信仰の
欠けるところなき信者となるのはひかえよう」
(「私のひとつの」全 P112)
【アルヴァロ・デ・カンポス】
「いつ見てもかわったところがなく
下品な言葉も日常の言葉として用い
食料品店の店先で盗みをはたらく息子をもち
階段の陰で立派な風采の男の自慰に手をかす
八歳の娘――おれはそれを美しいと思う おれはそれを愛する――
をもつ穢れた民衆よ。
足場を歩き廻り 現実のものとも思われぬ不潔な路地を通って
家へ帰る社会の底辺の人びとよ
犬のように生き あらゆる道徳律の外におり
自分たちのために説かれた宗教を持たず
自分たちのために創られた芸術を持たず
自分たちのために為される政治を持たぬ
素晴しき人びとよ。
おれがお前たちをどんなに愛していることか ほかならぬお前たちだからだ
下層の人びとであるが 不道徳的でなく 善人でも悪人でもなく
どんな進歩とも縁がなく
生の海底に生きる感嘆すべき動物群だからだ。」
(「勝利のオード」から P125~126)

増補
【フェルナンド・ペソア】
「ひとりの神が生まれ ほかの神々が死ぬ。
『真理』が訪れたのでも 去ったのでもない。『誤り』が変わったのだ。
いまわれらは『永遠』をまたひとつ手にしたのだ。
去ったものは訪れたものより常に良きもの。
『科学』は盲いて 不毛の地を耕し
『信仰』は狂って 己の信じるものの夢を生きる。
新しい神はただ語(ことば)にすぎぬ。
求めるな。信じるな。すべては隠されてあるのだ。」
(「降誕祭」全 P200)
【アルベルト・カイエロ】
「わたしはいつも遊んでいる子供にすぎなかった。
わたしは 人間のみが識ることのない万物にかかわる宗教を信じる異教徒であった、
太陽や水とひとしく。
わたしは幸せだった、なにものも求めず
なにものも見つけようとは努めず
説明という語にはいかなる意味もないということいじょうの
説明があろうなどとは思わなかったから」
(「わたしが一冊の」から P221)
【リカルド・レイス】
「わたしの魂は一つだけではない。
わたし自身より多くのわたしがある。
だがしかしわたしは存在する、
そうしたもののいずれとも関係なく。
わたしはそうしたものを黙らせる。わたしは話す。」
(「わたしたちのなかには」から P227)
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偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
お前のすべてを注いでなせ
いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
高きに生きているからだ
(「偉大であるためには」全 P110)
~~~~~~~~~~

フェルナンド・ペソアは1888年6月13日、ポルトガルの首都リスボンに生まれた。1908年からリスボンの貿易会社のために英文や仏文の商業文を作成する仕事に就き、1935年11月30日に没するまで、その仕事で得られる収入を生活の糧としていた。
本書の訳者である池上岑夫氏は「ペソアがすぐれた詩人であるのは、現代社会が生んだ人間の抱く問題を凝視しそれを詩のかたちで定着させたばかりでなく、現代人の『無力』をその根源まで見抜き現代人の在り方をよしとする虚構をあばきそれを解体したからである」(P180)と評している。こうしたタイプの詩人は、同時代に評価されることは少ない。ペソアも生前は限られた理解者しか持てなかったが、現在では20世紀前半の欧州における傑出した詩人の一人として評価されているという。
ペソア最大の特徴は、3人の「異名者」の存在だろう。異名者とは、ペソアの中に生まれた別人格の3人の詩人、自然詩人アルベルト・カイエロ、異教的・古典的詩人リカルド・レイス、ホイットマン流の大胆な詩を得意とするアルヴァロ・デ・カンポス――を指す。彼らは単なるペンネームの使い分けではなく、性格も略歴も異なる人間としてペソアの中に存在していたという。
彼ら異名者は「本名の詩人が創りだした一人の完璧な人間」であり、彼らの詩は「劇作家の作品に登場するそれぞれの人物の科白のごときもの」(P176)だとペソアは説明している。1人の詩人の中に別人格の詩人が3人も同居し、それぞれの詩的傾向をぶつけ合うことなく共存できたことに驚く。生命の多面性、無限の可能性を感じさせる。
「根本的な形而上学的思想をもたぬもの、つまりたとえささやかであってもよいのだが、生の重大さとその神秘にたいする思想の認められないもの、僕が不誠実と呼ぶのはこうしたものなのだ」(P178)という言葉通り、ペソアと異名者の詩は、存在することの神秘的な重大さを鋭く意識した人生観で貫かれている。
【本書から】
「さながらベッドの上のように
道で遊ぶお前 猫よ
ぼくはお前の幸運を羨む
あらためて幸運と呼べぬほどのものだから
石も人間も支配する絶対的な掟の
お前は忠実な下僕
お前はすべての動物にある本能を持ち
知覚するもののみを知覚する
お前は幸福だ そうしたお前こそお前だからだ
お前は無なるもの その無なるものこそお前のものだ
ぼくはぼくが見えながらぼくと共にあらず
ぼくを知りながらぼくではないのだ」
(「さながらベッドの上のように」全 P23)
「闇のなかを風が吹き荒び
大きな音がいつまでも続く
ぼくにはできない
思考をやめることだけは
魂には暗闇があるようだ
理解への希求から生まれる狂気が
吹きながらしだいに
大きく成長する暗闇が
自由になれぬまま
闇のなかを風が荒れ狂う
ぼくは思考から逃れられない
風が大気から逃れられないように」
(「闇のなかを」全 P28)
「栗色の髪の幼い児が
道の中央に倒れている
内臓はとび出し
手に握られた紐の先端に
意識からすでに消えた電車が転がる
顔は潰れ いまは血とそして
無なるものにかわり
ちいさな魚が光る
―子供たちが浴槽に浮かべる魚―
道の辺(ほとり)に
道のうえに夕闇が迫る
遠くではなお一条の光が
未来の創造を金色に染める……
だが少年の未来は?」
(「激しい爆撃のあと 我われは
その村を占領した」全 P34~35)
「わたしは世界を信じる 雛菊を信じるように
世界が見えるからだ だが世界について考えたりはしない
考えるとは理解しないこと……
世界はつくられたのだ 世界について考えるためでなく
(考えるとは眼を病むことだ)
世界を眺め そのまま受け容れるために……
わたしに哲学はない あるのは感覚だ……
自然について語ることがあっても それがなにであるか知っているからではない
愛しているからだ わたしが自然を愛するのはそのためだ(中略)
愛するとは永遠に純粋であること
そして純粋であるとは 考えないことにほかならないのだ……」
(「わたしの視線は」から P46~47)
「陽光のもとで 目を閉じれば
太陽とはなにかわからなくなり
太陽に暖められたあれこれの事物を考えるようになる
だが眼を開ければ 太陽が見え
もはやなにも考えられなくなる
太陽の光はいかなる哲学者の いかなる詩人の
思想よりも価値があるからだ
太陽の光は己れの行為のなんであるかを知らぬ
だから過つことなくすべての人にあまねく優しいのだ」
(「なにも考えぬことには」から P49)
「事物でわれわれに見えるのは事物そのもの
ある事物が存在するとき なぜそれとべつなものが見えようか
見ること聞くことが 見ること聞くことであるとすれば
見ること聞くことが なぜ錯覚することになろうか
本質的なことは見ることを知ることだ
考えることなく見ることを
見ているときは見ることを
そして見ているときは考えず
考えているときは見ないことを
だがそのためには(悲しいことに われわれは魂を装ってしまっている)
それには深い修練が必要だ
学びとらねばならぬのだ 知識を捨てることを
そして詩人たちが星を永遠の修道女に喩え
花をただ一日の命しかない篤信の悔悛者と呼ぶ修道院
だが星は星よりほかのなにものでもなく
花もまた花であり
だからわれわれは星と呼び 花と呼ぶ修道院の
自由のなかに身をゆだねることを
(「事物で」全 P60~61)
「己れが己れであり 見えるもののほかなにも見ないことのなんと困難なことか」
(「陽光が」から P63)
「(主よ 幸いにもわたしは善き人間ではありません
わたしは正直な利己主義者なのです
それと気づかぬまま ひたすら咲き
いちずに流れて
定められた道を歩む花や川のように
この世界における使命は唯ひとつ それは
その使命は――澄明に存在すること
それについて思いをめぐらすことなく そうあることなのです)」
(「昨日の夕暮れ」から P67)
「事物の持つ唯一のかくされた意味 それは
いかなるかくされた意味も事物は持たないということだから
どんな奇異なことよりも
どんな詩人の夢よりも
どんな哲学者の思想よりも思いがけないのは
事物は見たとおりのものにほかならず
理解すべきものはなにもないということだ
そうなのだ わたしの感覚が自ら学びとったのだ それは――
事物に意味はなく あるのは存在
事物そのものが事物の持つ唯一のかくされた意味ということ」
(「事物の神秘」から P68~69)
「わたしがどんな人間であったか語るのは易しい
わたしは見た 狂人のように
事物を愛した いかなる感傷もなく
果せなかった望みはなにもない 盲(めし)いたことがなかったから
聞くことさえ見ることに付随する行為にすぎなかった
わたしは学んだ 事物は実在したがいに異なることを
それをわたしは理解した 頭でなく眼で
頭で理解することは事物をすべてひとしいと見なすことであろう
ある日わたしは子供のように睡くなった
わたしは眼を閉じて睡った
そしてわたしはただ一人の自然詩人だった」
(「わたしが死んでから」から P78~79)
【リカルド・レイス】
「己れの運命を歩め
己れの草木に水を注げ
己れの薔薇を愛せ
あとはすべて
お前とは無縁な木ぎの影だ
現実は
常に
われらの望むものとさしてかわらず
われらにひとしいのは
常にわれら自身だ
ただ一人で生きることは楽しく
単純に生きることは常に
偉大にして高貴だ
苦しみは祭壇におけ
神がみへの供物として
人生を遠くから眺めよ
けっして人生を問うな
人生はなにも
答えられぬ 答えは
神がみを超えてあるのだ
心静かに
オリュンポスを真似よ
心のなかで
神がみが神がみであるのは
自己の存在について思考することがないからだ」
(「己れの運命を」全 P103~104)
「偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
お前のすべてを注いでなせ
いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
高きに生きているからだ」
(「偉大であるためには」全 P110)
「私のひとつの行動が
数えきれぬほどの蟻を傷つけ殺したら
蟻はそれを神なるものの業ととるだろう
しかし私にとって私は神なるものではない
このようにおそらく 神がみにとって
神がみは神がみではないだろう
私たちにとって神がみが神がみとなるのは
私たちより大きいからにすぎぬだろう
確かなことがなにであれ
神がみと信じているものにたいしても
おそらく根拠なき信仰の
欠けるところなき信者となるのはひかえよう」
(「私のひとつの」全 P112)
【アルヴァロ・デ・カンポス】
「いつ見てもかわったところがなく
下品な言葉も日常の言葉として用い
食料品店の店先で盗みをはたらく息子をもち
階段の陰で立派な風采の男の自慰に手をかす
八歳の娘――おれはそれを美しいと思う おれはそれを愛する――
をもつ穢れた民衆よ。
足場を歩き廻り 現実のものとも思われぬ不潔な路地を通って
家へ帰る社会の底辺の人びとよ
犬のように生き あらゆる道徳律の外におり
自分たちのために説かれた宗教を持たず
自分たちのために創られた芸術を持たず
自分たちのために為される政治を持たぬ
素晴しき人びとよ。
おれがお前たちをどんなに愛していることか ほかならぬお前たちだからだ
下層の人びとであるが 不道徳的でなく 善人でも悪人でもなく
どんな進歩とも縁がなく
生の海底に生きる感嘆すべき動物群だからだ。」
(「勝利のオード」から P125~126)

増補
【フェルナンド・ペソア】
「ひとりの神が生まれ ほかの神々が死ぬ。
『真理』が訪れたのでも 去ったのでもない。『誤り』が変わったのだ。
いまわれらは『永遠』をまたひとつ手にしたのだ。
去ったものは訪れたものより常に良きもの。
『科学』は盲いて 不毛の地を耕し
『信仰』は狂って 己の信じるものの夢を生きる。
新しい神はただ語(ことば)にすぎぬ。
求めるな。信じるな。すべては隠されてあるのだ。」
(「降誕祭」全 P200)
【アルベルト・カイエロ】
「わたしはいつも遊んでいる子供にすぎなかった。
わたしは 人間のみが識ることのない万物にかかわる宗教を信じる異教徒であった、
太陽や水とひとしく。
わたしは幸せだった、なにものも求めず
なにものも見つけようとは努めず
説明という語にはいかなる意味もないということいじょうの
説明があろうなどとは思わなかったから」
(「わたしが一冊の」から P221)
【リカルド・レイス】
「わたしの魂は一つだけではない。
わたし自身より多くのわたしがある。
だがしかしわたしは存在する、
そうしたもののいずれとも関係なく。
わたしはそうしたものを黙らせる。わたしは話す。」
(「わたしたちのなかには」から P227)
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