詩人の覚悟

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最後の止め刺す日まで
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詩人・西條八十の自筆詩稿である。200字詰めの「八十用箋」4枚に書かれている。タイトルは「敵の手傷はなほ浅し ―― 米英撃滅完遂の歌 ――」で、欄外に「最後の止め刺す日まで」とある。いわゆる愛国詩・戦争詩に分類できる。国書刊行会『西條八十全集』には収録されていないようだ。

太平洋戦争の当時、西條は童謡作家・流行歌の作詞者として著名で、早稲田大学仏文科の教授も務めていた。戦意を鼓舞する軍歌や愛国詩を多数制作し、日本軍の南京入城を現地で参観。学徒出陣も見送った。終戦後、戦犯として罪を問われそうになったというのも無理はない。

「愛国詩といふものは」と、西條は書く。「なによりもまづ平易な言葉で書かれねばならない。この未曽有の聖戦のさなかに、詩人が詠ふ大いなる感激は、その詩人一人に止まつてゐてはならない、かかる余裕は許されない。一億の同胞みな皇民、その詩は一億の皇民の胸中に、一人残さず喰ひ入つて、大和民族の伝統たる忠君愛国の精神を、目覚まし、鼓吹し、奮起せしめるものでなければならない」(『銃後』の「序」から/国書刊行会『西條八十全集【4】』P281)

「詩人の覚悟」と題した作品では、自分たち詩人の心情を「われら皇国の詩人、/生命ある言葉、真実なる言葉は、力以上の力、武器以上の武器、/帰納と演繹とを超えたる、/神秘の力あることを信ずる者、/満々たる自信をもつて協力団結、/己を卑しくするところなく詩の本道を濶歩して、/荘厳なる天業の恢弘に翼賛し奉らん。」と高らかに詠った(「詩人の覚悟」から/同書 P402)。

なぜ西條は、戦争に積極的に加担するような道を選んだか。阿部猛著『近代詩の敗北』(大原新生社)に引用されている西條の弁明には次のようにある。

「戦時中わたしはよく『さあ事だ、馬の小便、渡舟』という古い川柳を想ひだした。いはば国民全体が乗り合はせてゐる渡舟の中で、馬が小便をしはじめたのである。かういふ時には、一同むなしく水に溺れるか、さもなくば協力一致して、ともかくも、どこかの岸へ舟を着けねばなるまい。それが絶対の必要であった。アメリカに遊んで、あの厖大な物資力を知ってゐたわたしには、だいたいこの戦争の見通しはついてゐた。(中略)さうして軍国主義によって流される同胞の血を想って戦慄した。しかし、数多の肉親が、教へ子が、すでに生命を砲火に曝しつつある時に、この災禍を善悪いづれにもせよ、一刻も早く終結に運ぶ努力以外、何の方法があったか!」(阿部猛著『近代詩の敗北』大原新生社 P183~184)

動機はどうであれ、西條作の軍歌や詩が若者たちを鼓舞し、戦場に駆りたてたという事実は消えない。しかし攻めることも、攻められることもなかった70年を過ごしたいま、西條の言動を責めることにあまり意味があるとは思えない。明日はわが身だ。どんな人でも殺し合いの推進者になり得ることを教訓として自戒したい。

【詩稿全文】

「最後の止め刺す日まで」

敵の手傷はなほ浅し
―― 米英撃滅完遂の歌 ――

西條八十

緒戦一年、燦爛の
捷利(しょうり)は、海に、はた陸に、
東亜の天地をおほへども、
雲のかなたに、揺ぎなき
バッキンガムよ、白亜館、
――敵の手傷はなほ浅し。

窮鼠却(かえ)って猫を喰(は)む、
無限の富を楯として、
かれらは今日も孜々(しし)と積む、
飛行機の山、艦(ふね)の山、
焦土の日本を想い笑(え)む、
――敵の手傷はなほ浅し。

緒戦の光栄(はえ)に酔ふなかれ、
たとえ皇土の一隅をも
異寇(いこう)に汚すことあらば、
祖宗(そそう)へなんの面目ぞ、
挙(こぞ)れ、止めの一撃を、
――敵の手傷はなほ浅し。

いまこそ流せ、勤労の
瀧なす汗を、――増産の
溢るる川を、――敢然と
飛行機をわが家(いえ)とせん、
爆弾をわが糧とせん、
――最後に笑ふその日まで。