生と死の彼方で

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あなたは知っているか
きしみながら廻っている夜の軌道のまわりに
深さのはかれない崖があって
そこからのぞくと
もう 生きものの姿は見えない
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詩人・木原孝一の自筆詩稿である。正確な執筆年代は不明だが、戦後、日本女性文化協会が出していた月刊誌「いずみ」編集部の書類挟みに挟んであった。永田書房『木原孝一全詩集』には収録されていない。生を謳歌するのでも、死に転落するのでもなく、生と死の彼方で繰り広げられる美しくも恐ろしいビジョンの先に、木原は何を見ていたのだろうか。

木原は22歳のとき、建築技師として戦時下の硫黄島に赴任したが、1945年2月、病のため最後の病院船で内地に帰還した。その直後、硫黄島は米軍の総攻撃を受け、2万3000人の守備隊は玉砕。図らずも木原は、数少ない硫黄島からの生還者の一人となった。木原は硫黄島について次のように綴っている。

「私は十九年七月、小笠原兵団編成のときから全滅の直前の二十年一月末まで約六か月、硫黄島にいたが、あの戦友たちは島に上陸してから戦死するまで、一度も入浴したこともなければ、満足に顔を洗ったこともないのだ。おそらく一平方メートルに三トンいう砲爆撃にさらされて、死ぬまで一杯の水も飲むこともできなかったろう。おそらく戦友たちは敵の顔も見えない深い洞窟のなかで焼き殺されたに違いない。その死は『玉砕』などという美化された死ではなかった。ほんとうに地上をはう虫けらのように戦車のキャタピラに踏み潰され、地中にひそむ獣のように火焔放射器の焔で焼き殺されたのである。なんのためにか。肉親を敵手から護るために、愛するひとを戦争の手から護るためにということのほかに理由はないはずであった」(永田書房『木原孝一全詩集』P346)

詩人の斎藤庸一は『戦争を生きた詩人たち1』(沖積舎)の中で、木原と戦争について次のように論じている。

「木原孝一は三度の大量死を目撃している。一度は硫黄島へ上陸の輸送船沈没の大量死、二度目は硫黄島戦の山なす屍、そして三度目は東京空襲の無差別爆撃による大量死。人間の限界を越えた経験のイメージは、生き残った者の日常に昼夜の別なく襲いかかる。木原孝一の詩の原点はここから出発している。そして徐々に木原孝一の生命を蝕んでいったのであろう」(P222)

「荒地」に参加して戦後詩の旗手といわれ、「詩学」の編集長として活躍した木原だが、戦後の人生は苦しみでしかなかったのか。戦争で傷ついた人々に戦後などないことを、あらためて思い知らされる。

【懸崖】
聞くがいい
遥かな尾根の雪と風のなかからとどくのは
空のむこうの空で
星と星とがぶつかりあって叫んでいる声だ

 あれは救いを求めているのか
 あれは愛をたずねているのか
 あれは人間を探しているのか
 あの沈黙のなかの光りの吊橋は

見るがいい
遠い海の満ち潮と干き潮のあいだに光るのは
空の果ての空で
星と星とがぶつかりあって爆(は)ぜている焔だ

 あれは生命のはじまりか
 あれは終末の日のすがたか
 あれは人間の行方なのか
 あの暗黒のなかの光りの呼び声は

あなたは知っているか
きしみながら廻っている夜の軌道のまわりに
深さのはかれない崖があって
そこからのぞくと
もう 生きものの姿は見えない