存在を讃えよ

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個別の在り様を超えて、
宇宙が、世界が、生命が
在りつづけることに賭けたい(P128)
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今年1月に亡くなった詩人・清水茂氏の詩集『夕暮れの虹』である。2015年、舷燈社刊。清水氏の自筆署名と水彩画が収められた特装版で、限定40部中の28冊目。詩篇のほか、清水氏が「作品としての詩の苗床」(P128)と呼んだ、詩についての断想も収める。

在ることと、無いことの、意味を直観しながら、在るということの不思議さを讃え、希望を探し続けた詩人の姿に学ぶことは多い。終末の風が吹く時代の夕暮れに詩を書くことは、明日への虹を架けるようなものかもしれない。その虹の下では、地獄の釜が煮えている。

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【詩篇から】

いつの間にか、たくさんの音の蓄えが
私の空洞には宿っていて
遠い峰の 夜の風の音や
何処かの岸辺で聞いた潮騒や
異郷で耳にした言葉の
意味のわからない美しいひびきが
ときどき混り合って鳴りはじめる。
(「遠いひびき」から P7)

落ちてくる、落ちてくる、
無数の滴が 落ちてくる、
あまりにも大きな傷みを負って
女も男も 齢老いた者も 幼な子も
いつ果てるとも知らず
ただ耐えなければならないせいで、
無数の滴が 落ちてくる。
否 そればかりか すでに亡き人びとの
癒されることのない傷みが
きっと この無数の滴を
降らせているのだ。
山がはげしく 嗚咽を洩らしているのが聞えないか、
海や不幸を歎いて 立ち騒ぐのが見えないか。
鳥や 獣や そればかりか
数限りない樹木や 砂までもが。
落ちてくる、落ちてくる、
無数の滴が 落ちてくる。
そして 地に深く滲みてゆく、
いつの日かの すべてのものの蘇りを
きっと ひたすらに願いながら。
(「無数の滴が」全 P34~35)

死の向う側から光が射しかけてくるとき
死の翳が私たちの世界に落ちる。
まるで晩い秋の 夕暮れの
冷たい空気が地上を覆うときのようだ。
(「死の向う側から」から P60)

【「山深い岩間の水は ―詩についての断想」から】

「もし幸福や平和、あるいはよろこびや安らぎといった語が、
まだ死語でないとすれば、それらがこの地上にとどまることができるのは、
私たちの欲望の実現によってではない。
私がいまの時代を怖れるのはそのためなのだ。
何かしら、酔い痴れて、見定めもせず、
深淵の縁にむかって盲目に走ってゆく姿!

宇宙や大地や自然の真実を切り刻むのではなく、
受け容れること、あるいはその真実のなかに、
私たち自身が受け容れられること、それこそが大切なのだ。
そして、芸術も詩も、宇宙や自然とのこの関係のなかからしか
真の誕生を迎えることはできない」(P96)

「窮極には充実も空虚もない。瞬間も永遠もない。
すべてはただ一つだ。日が照り、闇が蔽っている。
宇宙のなかを風が吹く、静寂の風が。
そして、よろこびや悲痛な念いが
星のように鏤(ちりば)められている。
そこは時間の停止したひろがりだ、
いまと同じように」(P97)

「光とか夜とか、樹木とか空とか星とか、
そんなものだけに私の詩の世界は支えられている。
どの時代のものでもあり、誰のものでもある
そんな単純なものが私の詩の要素であることは
遥かな以前からであり、私は時代の流行のようなものに関心がない
(このことは現実の世界の状況に無関心だという意味ではない)。
この在り様はこれからもずっと続くだろう。

名づけられなくてもそこに在るもの、
おそらく私が必要としているのはそんなものだ。
雲や水や石は世界の要素なのだから。
そして、子どもや苦痛やよろこびもそうだ」(P100)

「それにも拘らず生きていることは
やはり讃えられねばなるまい。
それにも拘らずというのは、
この時代があまりに非人間的でもあるからだ。
世界のいたるところに耐え難い悲劇が多すぎるからだ。
そして、あまりに悲劇に慣れすぎた人類は
それを恐れさえしなくなっているからだ(中略)
けれども、なお自分が在る限り、
私は讃えることをこそ学びつづけなければならない。
讃えること自体が悲劇的であると知りながら」(P104)

「いまや老詩人(※イヴ・ボヌフォワのこと)は
迷妄と同時にいかなる虚飾をも斥けようとしている。
そうでありながら、なおことばを用いようとする。
そして、この矛盾を生きる他はないと考えているようだ。
言語の矛盾であり、生そのものの矛盾でもある。

そのことに同意しながらも、
そして、いまの時代の科学技術優先の思想にたいする
不信を共有しながらも、私はこの世界の美しさ、
豊かさになお心を向かわせることの必要を感じている。
それもまた迷妄でも夢でもないからだ。
絶えず脅かされているのは、まさしくこのものだ。
幼い者の笑顔を護らなければならない」(P105~106)

「詩に現代性がなければいけないという。
私たちが生きているこの世界の現実と
結ばれていなければならないのは当然のことであり、
そこから多くの痛みを受け取ることにもなるのだ。

けれども、これは詩がジャーナリズムの提供する情報を
ほとんど未消化のままに詩的言語のなかに
取り込むということとはまったく別のことだ。
伝えられる不幸や苦しみをも私たち自身のまなざしによって
擒えなおし、内側に沈めてゆくことが必要だ。
世界そのものの奥深い歎きに共鳴するためにも」(P111~112)

「感性が開かれていれば、
世界がその魅力を顕してくれるのは事実だ(中略)
たぶん、詩の役割のひとつは、瞬間、
世界が顕すこうした魅力に反応することだ(中略)
ことばに可能なのはやはり反映を宿すことだ」(P112~113)

「詩に関していえば、
それを受け取る者が外側から鑑賞して、
良いと判断する作品がすぐれているとは思えない。
ずっと若い頃にリルケやヘッセを読み、
しばしば自分のことが
そこには詩われているように感じたものだ。
つまり、根元的なところでの同意だ。
言葉に託されている情感、というよりは
やはり経験であるものが、
私の衷に同種のものを喚び起すからだ。
ということは、詩人の個別の経験であるものが深められて、
何かしら根元的な地層にまで達しているからだ。

そのことがなければ、
ほんとうに良い詩だとは思えないし、
また、ほんとうの意味で
詩を読むという行為も存在しない」(P114)

「実際、何でもないことのなかで
一日ずつを過している。だが、これは
たいしたことなのだと思う。
世界、もしくは宇宙が存在するということ、
その、いちばん目立たない片隅に野薔薇が咲いていて、
それを現にいま私が目にしているということ、
刻々、その瞬間は遠ざかってゆくのに、
自分が無数の些細なものたちと
その瞬間を共有しているということ、
これはたいしたことなのだ。

いずれもっと時が経てば、私は存在しなくなる。
だが、そのときにも夥しい数の存在や事物の相互間で、
同様のことは生じている。生じつづけている。
実際、これはたいしたことなのだ」(P116)

「二十世紀は悪しき世紀だったが、
二十一世紀は更に悪い。
人間の社会は品位というものをかなぐり捨てて、
欲望のままに動いているようにみえる。

そんななかで、詩は何を護ることができるのか、
あるいは、何であり得るのか。
人間は詩に希望を繋ぎとめることができるのか」
(P120~121)

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【「あとがき」から】

「私たちの住むこの地上世界の様相はますます暗く、
大きな哀しみに覆われてゆくように感じられてなりません。
抗争は果てしなくつづき、自然災害は増大するばかりです。
産業社会の効率本位の価値観に支えられた科学技術の発展は、
おそらく、こうした不幸を減じるどころか、
さらにはげしく私たちを破滅の淵へと
駆り立てることになるでしょう。
それでも、なお、
微かな希望の徴を捜しつづけなければなりません。
存在とはそれがどれほど暗さに包まれていようとも、
宇宙そのものが在ることの不思議さ同様、
奇蹟に他ならないとなお信じられるからです。
個別の在り様を超えて、
宇宙が、世界が、生命が在りつづけることに
賭けたいと思います」(P128)