試される矜持
~~~~~~~~~
詩は世人の多数が
現在軽視しているほど無力なものでない。
また詩人は概して、
腹ぐろくない正義にくみする純情の人であるから、
日本の詩人のみならず、
世界の詩人にも呼びかけて
国際的詩人団体の結成にまで発展させたい(P25)
~~~~~~~~~
私が所属する日本詩人クラブは今年5月、創立70周年を迎えた。記念出版『日本現代詩選2020』には、500人を超える詩人が寄稿した。現代詩の衰退など感じさせない盛況ぶりだ。
日本詩人クラブの会報「詩界」の創刊号(写真)は、団体発足から5カ月後の1950年(昭和25年)10月に出た。当時の社会状況について、日本詩人クラブの会長を務めた鈴木敏幸氏はこう書いている。
終戦後の混乱は餓鬼道そのものであった。
〈やみ取引〉を忌む者は餓死せざるを得ず、
中身が代用食の薩摩芋の尻尾といった、
今日からすれば、
あまりにも、さもしい弁当さえも、
かっぱらわれてしまうという有様の時代である。
「人に情けの失せはてて……」と愁いたのは
正富汪洋である。(復刻版「詩界」解説 P8)
この正富汪洋こそ、日本詩人クラブの創設を提唱した人物だ。正富はなぜ、詩人の全国団体をつくろうと思い立ったのか。「詩界」創刊号の「日本詩人クラブ成立経過概要」には次のようにある。
太平洋戦争後の日本、台湾や朝鮮等を失った
敗戦国日本の国民生活は
実に悲惨の極みであった。
終戦後、四星霜を経た一九四九年に於ても、
空腹に泣く涙は涸れず、道義の頽廃、
人心の険悪、情愛の喪失、
民主主義の誤認曲解による不孝、反逆は、
生活苦に伴って激化し目も向けられず、
真にこの世ながらの地獄を現出した。
ここに宗教と詩歌との興隆による、
世相の浄化を思った正富は、
まず、詩人の団体を組織し、
索漠たる社会に潤いを与える
詩の雑誌も出したい、講演会も開きたい。
詩は世人の多数が現在軽視しているほど
無力なものでない。また詩人は概して、
腹ぐろくない正義にくみする純情の人であるから、
日本の詩人のみならず、世界の詩人にも呼びかけて
国際的詩人団体の結成にまで発展させたい
(P25 ※原文は旧字・旧仮名遣い)
こうした理想のもとに結成された日本詩人クラブには、高村光太郎、佐藤春夫、西條八十、室生犀星、中西胡堂、大木惇夫、丸山薫、前田鐵之助、百田宗治、土井晩翠、川路柳虹、河井醉茗、深尾須磨子、神保光太郞、富田碎花、白鳥省吾、堀口大學、井上康文、金子光晴、村野四郎など、現在でもよく知られている詩人が会員として名を連ねた。
しかし、妙だ。彼らの多くは、戦時中、望むと望まないとにかかわらず、戦意高揚を図り、若者を死地に送り出すための詩を書いた人たちだ。団体設立を唱道した正富自身、日本の戦争は「大東亜維新」であって、そこから「世界維新」「世界国建設」を目指すべきだと説いていた(『主動性東亜』詩と歌謡の社)。彼らには「悲惨の極み」「この世ながらの地獄」を生み出した責任の一端があるはずだが、その反省については一言も触れられていない。
戦争を甘く見ていたのかもしれない。皇国の威光を素朴に信じすぎたのかもしれない。しかし彼らの本心を聞こうにも、高村光太郎や大木惇夫など一部の詩人を除いて、多くの詩人は戦時中の自らの言動を封印してしまった。自身の全集から、戦争のために書いた特殊な詩を省くのは理由のないことではないとしても、年表からも戦時中の活動が抜け落ちている例は珍しくない。いつしか反戦・平和の詩人と讃えられ、素知らぬ顔をしていた人もいる。信じた大義がまやかしだったことを知る苦しみはよく分かるし、自身の黒歴史に触れられたくないのは当然だとしても、「腹ぐろくない正義にくみする純情の人」という正富の言葉が、悲しいほどむなしく響く。
戦争中は祖国の正義と勝利を、敗戦後は平和と民主主義を讃えよ。過去に知らんぷりを決め込んで、口を拭うのはずるいとしても、時流に逆らっては食べていけないし、家族も守れない。そういうことだと思っておこう。
敗戦から75年。あのころの風が、また吹き始めたいま、あらためて詩人としての矜持(それは人間としての矜持でもある)が試されることになりそうだ。
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詩は世人の多数が
現在軽視しているほど無力なものでない。
また詩人は概して、
腹ぐろくない正義にくみする純情の人であるから、
日本の詩人のみならず、
世界の詩人にも呼びかけて
国際的詩人団体の結成にまで発展させたい(P25)
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私が所属する日本詩人クラブは今年5月、創立70周年を迎えた。記念出版『日本現代詩選2020』には、500人を超える詩人が寄稿した。現代詩の衰退など感じさせない盛況ぶりだ。
日本詩人クラブの会報「詩界」の創刊号(写真)は、団体発足から5カ月後の1950年(昭和25年)10月に出た。当時の社会状況について、日本詩人クラブの会長を務めた鈴木敏幸氏はこう書いている。
終戦後の混乱は餓鬼道そのものであった。
〈やみ取引〉を忌む者は餓死せざるを得ず、
中身が代用食の薩摩芋の尻尾といった、
今日からすれば、
あまりにも、さもしい弁当さえも、
かっぱらわれてしまうという有様の時代である。
「人に情けの失せはてて……」と愁いたのは
正富汪洋である。(復刻版「詩界」解説 P8)
この正富汪洋こそ、日本詩人クラブの創設を提唱した人物だ。正富はなぜ、詩人の全国団体をつくろうと思い立ったのか。「詩界」創刊号の「日本詩人クラブ成立経過概要」には次のようにある。
太平洋戦争後の日本、台湾や朝鮮等を失った
敗戦国日本の国民生活は
実に悲惨の極みであった。
終戦後、四星霜を経た一九四九年に於ても、
空腹に泣く涙は涸れず、道義の頽廃、
人心の険悪、情愛の喪失、
民主主義の誤認曲解による不孝、反逆は、
生活苦に伴って激化し目も向けられず、
真にこの世ながらの地獄を現出した。
ここに宗教と詩歌との興隆による、
世相の浄化を思った正富は、
まず、詩人の団体を組織し、
索漠たる社会に潤いを与える
詩の雑誌も出したい、講演会も開きたい。
詩は世人の多数が現在軽視しているほど
無力なものでない。また詩人は概して、
腹ぐろくない正義にくみする純情の人であるから、
日本の詩人のみならず、世界の詩人にも呼びかけて
国際的詩人団体の結成にまで発展させたい
(P25 ※原文は旧字・旧仮名遣い)
こうした理想のもとに結成された日本詩人クラブには、高村光太郎、佐藤春夫、西條八十、室生犀星、中西胡堂、大木惇夫、丸山薫、前田鐵之助、百田宗治、土井晩翠、川路柳虹、河井醉茗、深尾須磨子、神保光太郞、富田碎花、白鳥省吾、堀口大學、井上康文、金子光晴、村野四郎など、現在でもよく知られている詩人が会員として名を連ねた。
しかし、妙だ。彼らの多くは、戦時中、望むと望まないとにかかわらず、戦意高揚を図り、若者を死地に送り出すための詩を書いた人たちだ。団体設立を唱道した正富自身、日本の戦争は「大東亜維新」であって、そこから「世界維新」「世界国建設」を目指すべきだと説いていた(『主動性東亜』詩と歌謡の社)。彼らには「悲惨の極み」「この世ながらの地獄」を生み出した責任の一端があるはずだが、その反省については一言も触れられていない。
戦争を甘く見ていたのかもしれない。皇国の威光を素朴に信じすぎたのかもしれない。しかし彼らの本心を聞こうにも、高村光太郎や大木惇夫など一部の詩人を除いて、多くの詩人は戦時中の自らの言動を封印してしまった。自身の全集から、戦争のために書いた特殊な詩を省くのは理由のないことではないとしても、年表からも戦時中の活動が抜け落ちている例は珍しくない。いつしか反戦・平和の詩人と讃えられ、素知らぬ顔をしていた人もいる。信じた大義がまやかしだったことを知る苦しみはよく分かるし、自身の黒歴史に触れられたくないのは当然だとしても、「腹ぐろくない正義にくみする純情の人」という正富の言葉が、悲しいほどむなしく響く。
戦争中は祖国の正義と勝利を、敗戦後は平和と民主主義を讃えよ。過去に知らんぷりを決め込んで、口を拭うのはずるいとしても、時流に逆らっては食べていけないし、家族も守れない。そういうことだと思っておこう。
敗戦から75年。あのころの風が、また吹き始めたいま、あらためて詩人としての矜持(それは人間としての矜持でもある)が試されることになりそうだ。
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