詩人たちとの交流
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何といふ幸福のイメージでせう。
「自己満足」といふものの
何といふ徹底的な詩的影像でせう。
(高見順宛の手紙から)
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三島由紀夫が「詩を書く少年」だったことはよく知られている。三島の自己評価では「私はかつて詩人であったことがなかった」(「太陽と鉄」)ということらしく、手製の詩集やノートは数多く残されているものの、生前、単行本として公刊されることはなかった。それらは、新潮社『決定版 三島由紀夫全集(37)』や、三島由紀夫文学館『三島由紀夫詩集』等で読むことができる。
同時代の詩人たちとの交流は多かったようだ。先日、三島の旧蔵書が古書市場に流れていたので2冊購入した。高見順の詩集『わが埋葬』と『谷川俊太郎詩集』だ(いずれも思潮社刊)。どちらも著者から三島への献呈署名が書き込まれている(=写真)。
新潮社『決定版 三島由紀夫全集(38)』の書簡集を見ると、高見順への礼状が収録されていた。全文引く。
「わが埋葬」をありがたく頂戴いたしました。座右において、一篇づつ、拝誦しながら、お礼の御返事も遅れ、お詫び申上げます。小生の偏奇な趣味でハ、末尾の「ノアの酒」が一等好きです。何といふ幸福のイメージでせう。「自己満足」といふものの何といふ徹底的な詩的影像でせう。それから「おれの期待 五」や「幸福」を美しい抒情詩だと思ひます。それから「冬は」や「怒り」も。「おれの期待 一‐三」は、丁度小説「いやな感じ」などの主題のシュール・レアリスティックな変奏曲のやうな気がします。実に愉しく拝読した詩集でありました。重ねて御礼申上げます。(昭和38年2月8日付)
谷川俊太郎については、詩集『愛について』を贈られた際の返書があった。同様に全文引く。
わが愛誦する「ビリイ・ザ・キッド」その他を収められた詩集「愛について」を有難うございました。「無題」の「私は倦(あ)いた」のルフランも好きです。「ミラボオ橋の下をセエヌは流れる」のリズムを、何故かしら思ひ出しました。(昭和31年1月19日付)
三島が言及した作品からいくつか引いてみる。
【高見順】
「ノアの酒」
ノアは葡萄を植えて/その実で葡萄酒を作つた/血のように赤い葡萄酒が/すこぶるノアの気に入った/ノアにはそれが人間の血なのである//すべての人間を殺して/自分ひとりが助かつた/あのこたえられない喜びが/人間の血である葡萄酒を飲むと/今ふたたびいきいきとよみがえる
「おれの期待 五」
徹夜の仕事を終えて/外へおれが散歩に出ると/ほのぐらい街を/少年がひとり走つていた/ひとりで新聞を配達しているのだ//
おれが少年だった頃から/新聞は少年が配達していた/昔のあの少年は今/なにを配達しているだろう/ほのぐらいこの世間で//
なにかをおれも配達しているつもりで/今日まで生きてきたのだが/人々の心になにかを配達するのが/おれの仕事なのだが/この少年のようにひたむきに/おれはなにを配達しているだろうか//
お早よう けなげな少年よ/君は確実に配達できるのだ/少年の君はそれを知らないで配達している/知らないから配達できるのか/配達できるときに配達しておくがいい/楽じやない配達をしている君に/そんなことを言うのは残酷か//
おれがそれを自分に言つては/おれはもうなにも配達できないみたいだ/おれもおれなりに配達をつづけたい/おれを待つていてくれる人々に/幸いその配達先は僅かだから/そうだ おれはおれの心を配達しよう
「冬は」
冬は/手から冷える時と/足から冷える時とがある//
悲しみは/いつも真すぐ心に来る
【谷川俊太郎】
「無題」
私は倦いた/私は倦いた 我が肉に/私は倦いた 茶碗に旗に歩道に鳩に/私は倦いた 柔く長い髪に/私は倦いた 朝の手品夜の手品に/私は倦いた 我が心に//
私は倦いた/私は倦いた 数知れぬこわれた橋/私は倦いた 青空の肌のやさしさ/私は倦いた 銃の音啼の音良くない酒に/私は倦いた 白いシヤツまた汚れたシヤツに/私は倦いた 下手な詩に上手な詩に//
私は倦いた 仔犬は転ぶ/私は倦いた 日日の太陽/私は倦いた 赤いポストの立つているのに//
私は倦いた 脅迫者の黒き髭に/私は倦いた 照り翳る初夏の野道に/私は倦いた 星のめぐりに 一日に//
私は倦いた 我が愛に/私は倦いた ふるさとの苫の茅屋//
私は倦いた
どうだろう。三島らしい選択だろうか。高見順から詩集『死の淵より』を贈られた際の返書で三島は、「最近の日本の詩については、私は大体人の座敷の宴会を覗くやうな気がして、ついて行けませんでした」と吐露している。茶番に白けるといったところか。「かつて詩人であったことがなかった」とは言いながら、さすがに手厳しい。
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何といふ幸福のイメージでせう。
「自己満足」といふものの
何といふ徹底的な詩的影像でせう。
(高見順宛の手紙から)
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三島由紀夫が「詩を書く少年」だったことはよく知られている。三島の自己評価では「私はかつて詩人であったことがなかった」(「太陽と鉄」)ということらしく、手製の詩集やノートは数多く残されているものの、生前、単行本として公刊されることはなかった。それらは、新潮社『決定版 三島由紀夫全集(37)』や、三島由紀夫文学館『三島由紀夫詩集』等で読むことができる。
同時代の詩人たちとの交流は多かったようだ。先日、三島の旧蔵書が古書市場に流れていたので2冊購入した。高見順の詩集『わが埋葬』と『谷川俊太郎詩集』だ(いずれも思潮社刊)。どちらも著者から三島への献呈署名が書き込まれている(=写真)。
新潮社『決定版 三島由紀夫全集(38)』の書簡集を見ると、高見順への礼状が収録されていた。全文引く。
「わが埋葬」をありがたく頂戴いたしました。座右において、一篇づつ、拝誦しながら、お礼の御返事も遅れ、お詫び申上げます。小生の偏奇な趣味でハ、末尾の「ノアの酒」が一等好きです。何といふ幸福のイメージでせう。「自己満足」といふものの何といふ徹底的な詩的影像でせう。それから「おれの期待 五」や「幸福」を美しい抒情詩だと思ひます。それから「冬は」や「怒り」も。「おれの期待 一‐三」は、丁度小説「いやな感じ」などの主題のシュール・レアリスティックな変奏曲のやうな気がします。実に愉しく拝読した詩集でありました。重ねて御礼申上げます。(昭和38年2月8日付)
谷川俊太郎については、詩集『愛について』を贈られた際の返書があった。同様に全文引く。
わが愛誦する「ビリイ・ザ・キッド」その他を収められた詩集「愛について」を有難うございました。「無題」の「私は倦(あ)いた」のルフランも好きです。「ミラボオ橋の下をセエヌは流れる」のリズムを、何故かしら思ひ出しました。(昭和31年1月19日付)
三島が言及した作品からいくつか引いてみる。
【高見順】
「ノアの酒」
ノアは葡萄を植えて/その実で葡萄酒を作つた/血のように赤い葡萄酒が/すこぶるノアの気に入った/ノアにはそれが人間の血なのである//すべての人間を殺して/自分ひとりが助かつた/あのこたえられない喜びが/人間の血である葡萄酒を飲むと/今ふたたびいきいきとよみがえる
「おれの期待 五」
徹夜の仕事を終えて/外へおれが散歩に出ると/ほのぐらい街を/少年がひとり走つていた/ひとりで新聞を配達しているのだ//
おれが少年だった頃から/新聞は少年が配達していた/昔のあの少年は今/なにを配達しているだろう/ほのぐらいこの世間で//
なにかをおれも配達しているつもりで/今日まで生きてきたのだが/人々の心になにかを配達するのが/おれの仕事なのだが/この少年のようにひたむきに/おれはなにを配達しているだろうか//
お早よう けなげな少年よ/君は確実に配達できるのだ/少年の君はそれを知らないで配達している/知らないから配達できるのか/配達できるときに配達しておくがいい/楽じやない配達をしている君に/そんなことを言うのは残酷か//
おれがそれを自分に言つては/おれはもうなにも配達できないみたいだ/おれもおれなりに配達をつづけたい/おれを待つていてくれる人々に/幸いその配達先は僅かだから/そうだ おれはおれの心を配達しよう
「冬は」
冬は/手から冷える時と/足から冷える時とがある//
悲しみは/いつも真すぐ心に来る
【谷川俊太郎】
「無題」
私は倦いた/私は倦いた 我が肉に/私は倦いた 茶碗に旗に歩道に鳩に/私は倦いた 柔く長い髪に/私は倦いた 朝の手品夜の手品に/私は倦いた 我が心に//
私は倦いた/私は倦いた 数知れぬこわれた橋/私は倦いた 青空の肌のやさしさ/私は倦いた 銃の音啼の音良くない酒に/私は倦いた 白いシヤツまた汚れたシヤツに/私は倦いた 下手な詩に上手な詩に//
私は倦いた 仔犬は転ぶ/私は倦いた 日日の太陽/私は倦いた 赤いポストの立つているのに//
私は倦いた 脅迫者の黒き髭に/私は倦いた 照り翳る初夏の野道に/私は倦いた 星のめぐりに 一日に//
私は倦いた 我が愛に/私は倦いた ふるさとの苫の茅屋//
私は倦いた
どうだろう。三島らしい選択だろうか。高見順から詩集『死の淵より』を贈られた際の返書で三島は、「最近の日本の詩については、私は大体人の座敷の宴会を覗くやうな気がして、ついて行けませんでした」と吐露している。茶番に白けるといったところか。「かつて詩人であったことがなかった」とは言いながら、さすがに手厳しい。
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