自分自身を生きよ

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訳者は特に「ツァラツストラの再来」と「自伝素描」を
今の日本の若い人々に読んでもらいたいと強く思い、
その意をヘッセに伝えたら、ヘッセはその気もちを汲んで、
この二つの邦訳を快く許して下さった。
ヘッセとしては、自分の著作が原書の形のままで
邦訳されることを原則とするので、
個々の作品を抜いて訳出するのは望まないところであるが、
今回は例外を設けて下さったのである(訳者あとがき・P166)
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『若き人々へ』は人文書院版「ヘッセ著作集(全23冊)」の1冊である。「ツァラツストラの再来― 一言、ドイツの若き人々へ ―」「自伝素描」「カラマゾフ兄弟、ヨーロッパの没落」「ドストエフスキーの『白痴』随想」を収録している。

「ツァラツストラの再来」は、人生を本当に生きるための深い内省を読者に促す。自分の外部にある何かではなく、自身の内部の掟に従って生きるべきことを説く。同じ年に発表された『デミアン』の扉に書かれた言葉、「私は、自分の中からひとりでに出てこようとしたものだけを生きてみようと望んだだけだった。なぜそれがこんなにも困難だったのだろうか」(ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編『ヘルマン・ヘッセ全集【10】』臨川書店 P2)と同じ主題といえる。

「自伝素描」は、ヘッセ自身の歩みを通じて、内面の掟に従って生きる一つの実例を示したものといえるだろう。「カラマゾフ兄弟」「『白痴』随想」も関連したテーマを扱っている。私たちの誰もが、永遠というものに触れる一瞬を持たなければならないという指摘は実に真実だ。

なお、最新の『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集』(臨川書店)では、「ツァラツストラの再来」は第8巻(P155~)に、「自伝素描」は「略伝」と改題して第2巻(P177~)に、「カラマゾフ兄弟」は第7巻(P121~)に、「ドストエフスキーの『白痴』随想」は第7巻(P113~)に収録されている。

【「ツァラツストラの再来」から】
「君たちは、私がツァラツストラであることを学んだように、
君たち自身であることを学ばなければならない。
他のものであること、全く無であること、他人の声をまねること、
他人の顔を自分の顔だと思うことを忘れなければならない」(P20)

「運命が偶像からは来ないことを学べ!(中略)
運命を外から受け入れるような人は、運命に殺される(中略)
運命が内から、自己の最も固有なところから来るような人は、
運命によって強められ、神にされる」(P23)

「大きなことばを使いつけていると、たがいに理解し合うことは、
それどころか自分自身を理解することも、むずかしくなる」(P27)

「なぜ君たちは今も君たちの苦痛をその実際のありかに、
即ち君たちの中に探そうとしないのか。君たちに苦痛を与えるのは、
恐らく国民でもなく、祖国でもなく、世界支配権でもなく、デモクラシイでもない――
恐らくそれは単に君自身であり、君の胃か肝臓であり、君の体内の腫物か癌であろう」(P28)

「行為――それは、行う前に、
『何をなすべきか』とたずねるような人間によっては、
未だかつてなされたことはない」(P31)

「生まれることは悩みである。成長は悩みである。
種は土を悩み、根は雨を悩み、芽は発芽を悩む。
そのように、友よ、人間は運命を悩む。
運命は土であり、雨であり、成長である。
運命は苦痛を与える」(P34)

「孤独は、運命が人間を彼自身に導かんと欲する道である。
孤独は人間が最も恐れる道である」(P39)

「ツァラツストラはあの孤独の道をかなりの距離歩いた。
彼は悩みの学校で修業した。
彼は運命の鍛冶場を見、そこで鍛えられた」(P42)

「自己に定められた孤独を見出したものは幸いだ。
悩むことを知るものは幸いだ!
心に魔法の石を抱くものは幸いだ!
その人のところには運命がやって来、
その人からは行為が発足する」(P43~44)

「男らしく没落するか、男らしく生きつづけるか、どちらかだと思う。
子供のように泣きわめかないことだ。
運命を認識し、悩みを自分のものとし、
そのにがさを甘さに変え、悩みによって成熟することだ」(P49)

「世界は改良されるために存在しているのではない。
君たちもまた改良されるために存在しているのではない。
君たちは、自分自身であるために存在しているのだ。
世界が君たちの存在の響きと音と影とだけ豊かさを増すために、
君たちは存在しているのだ。君自身であれ! そうすれば世界は豊かで美しい!
君が自分自身でなく、うそつきであり、卑怯者であれば、
世界は貧しく、改良を必要とするように思われる」(P53~54)

「人間は、自分の利己心を恥じはじめる時、世界改良について語り、
そういうことばのかげに隠れはじめる」(P55)

「君たちが、新たな、あらしをはらむ、
わきたつ時に生まれたのは、一体不幸だろうか。
それは君たちの幸福ではないか」(P67)

「君たちはツァラツストラを崇拝してはならない。
ツァラツストラをまねてもならない。
ツァラツストラになろうと欲してもいけない。
君たちのめいめいの中には、
まだ子どもの深いまどろみのうちにねている隠れた姿がある。
それをして生命あらしめよ!
君たちのめいめいの中には、自然の呼び声と意志と構想とがある。
未来と、新たなものと、より高いものとを目ざしての構想がある。
それを熟さしめよ、それを残りなくひびかしめよ、
それに対して心を用いよ!」(P67~68)

「君たちのめいめいが耳をかす必要のあるのは、ただひとつ、
自分の唯一の独自の鳥だけである(中略)
その鳥に耳をかせ! 君たち自身の中から来る声に耳をかせ!
その声が沈黙していたら、何かゆがんでいる、何か調子が狂っている、
君たちが道を誤っている、のだということを知れ。
だが、君たちの鳥が歌い、語るならば、
――その時は、それに従え、その声のあらゆる誘いに従え、
どんなに冷たい孤独の中へでも、どんなに暗い運命の中へでも!」(P69~70)

【「自伝素描」から】
「十三の年から私には、自分は詩人になるか、
でなければ何にもならないという一事が明きらかになった」(P78)

「(1915年のある日)いわゆる精神的な人間も、憎みを説き、うそを拡め、
大きな不幸を賛美するよりほかには、何もなし得ないことについて遺憾の意を示したことばがもれた。
それは、かなり内気に表白されたにもかかわらず、
この訴えの結果、私は祖国の新聞で、裏切りものと宣告されるにいたった」(P86)

「私は偶然信心ぶかい新教徒の子に生まれたばかりでなく、
気質からも本質からもプロテスタント(抗議者)だからである(中略)
真のプロテスタントは、その本質上、存在よりも生成をより多く肯定するからである。
この意味において恐らく仏陀もプロテスタントであったろう」(P96)

「私が何かほんとに必要なこと、幸福なこと、美しいことを企てると、
いつでも人々は不快に思う。
彼らは、人が旧状にとどまること、顔を変えないことを、好む。
だが、私の顔はそれをこばみ、たびたび変わることを欲する」(P97~98)

【「カラマゾフ兄弟」から】
「何ものも外だけにはなく、何ものも内だけにはない。
外にあるものは、内にもあるからである」(P109)

【「『白痴』随想」から】
「この白痴(ムイシキン)が他のものたちの世界でやって行くことのできないのは、何に基因するか。
なぜだれも彼を理解しないのか(中略)
それは、この白痴が他の人たちとは異なった考えを語るからである(中略)
この柔和な白痴は、他の人たちの生活全体を、思考と感情との全体を、
世界と現実との全体を否定する(中略)
彼は、全く新しい現実を見、また要求する点で、彼らの敵となる」(P153~154)

「彼(ムイシキン)にとって最高の体験は、
いくどか味わったことのある最高の敏感さと透察とに満ちた半秒間である。
即ち、一瞬間の間、一瞬間のきらめきの間、世間に存在する一切のものとなり、
一切を共感し、一切と共に苦しみ、一切を理解し、肯定することのできる魔術的な能力が、
彼にとって最高の体験である。そこに彼の本質の核心がある」(P155)

「人間の文化から見た最高の現実は、
このように世界が、明暗、善悪、可否に分類されていることである。
しかしムイシキンにとって最高の現実は、あらゆる規定が転換可能であること、
反対極が同じ権利をもって存在することの不可思議な体験である。
『白痴』は、つきつめれば、無意識界の母権を導入し、文化を揚棄する。
彼は法律の制札を打ちこわしはせず、ただそれを裏返して、
裏面に反対のことが書かれていることを示すだけである。

秩序のこの敵、この恐るべき破壊者が犯罪者として登場せず、
無邪気さと優雅と善良な誠実さと
没我的な好人物気質との満ちた愛すべき内気な人間として登場するという点こそ、
この恐ろしい本の秘密である」(P158)

「われわれのだれでもが、一生のうちに一時間は、
在来の真理が終わって新しい真理が始まり得る
ムイシキン的な限界に立たなければならないであろう。
われわれのだれでもが一生に一度は、一瞬間は、
ムイシキンが透察の明を得た数秒間に体験したようなことを、
ドストエフスキー自身が死刑執行に直面し、
そこからよみがえって予言者の目を得たあの数秒間に体験したようなことを、
心の中で体験しなければならない」(P161~162)