戦乱を超えて輝く真実の星を示す

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われわれはみな「憎み」から自己を解放し――
「悪からわれわれを解放し」(libera nos a malo)――
平和を獲得するために闘わねばならない。
これは各人の、また万人の仕事でなければならない
(宮本正清訳『ロマン・ロラン全集【19】』所収
「アグリゲンツムのエンペドクレス」みすず書房 P208)
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ロマン・ロラン著『アグリゲンツムのエンペドクレス』、1918年に雑誌社「カルメル」から出た初版本である。扉にロランの自筆で献辞が書き込まれている。

第1次大戦の開戦当初から欧州を席巻する憎悪にペンで立ち向かったロランだったが、「聞こうとしない人々に語ることは無益である、と確信した」※1。大戦が3年目に入ると、ロランの熱情的な怒りは、落ち着いた深い同情に変わってくる。「彼はあらためて闘争を開始しなければならぬ義務を感じた。≪真実のことは常に繰返して云ってやらなければならない≫とゲーテはエッカーマンに云っている。≪なぜなら誤謬もわれわれの周囲でくりかえしくりかえし説かれており、しかもそれは個々の人々によってではなく、群衆によって説かれているからである≫」※2

ロランはもはや他人の見解や戦争に攻撃を加えるのではなく、「血まみれな夜のなかで光がなおもきらめいていることを、光はかつて消えたことがなかったし、今後も消えることは断じてないだろうということを」※3示そうとする。そして戦乱を超えて輝く真実の星たち、あらゆる国で理想のために闘った人々、精神の開拓者たちを宣揚する。その列に青年時代から敬愛していたイオニアの賢人エンペドクレスの肖像を加えるのである。

その意味で本作は、エンペドクレスの単なる伝記や研究ではない。『ベートーヴェンの生涯』と同じ、偉大な星への捧げものといえる。本作の訳者・宮本正清の言葉を借りれば、「青春の海峡を渡るロマン・ロランをそのいみじき光明をもって照らし導いたクラシックの明星たちにささげる感謝の讃歌ともいうべきものであろう」※4。ロラン自身、英国の哲学者バートランド・ラッセルに本作を贈呈する際、「その本は(稀れな版ということ以外には重要性はありませんが)、私の青春から、つねに私の想像を引きつけた古代の偉大な夢想家――アグリゲンツムのエンペドクレスに関する一つの夢想です」※5と手紙に綴っている。

※1 みすず書房『ロマン・ロラン全集【18】』所収「先駆者たち」山口三夫訳 P120)
※2 ツヴァイク著/大久保和郎訳『情熱の人ロマン・ロラン』角川文庫 P306)
※3 みすず書房『ロマン・ロラン全集【18】』所収「先駆者たち」山口三夫訳 P120)
※4 みすず書房『ロマン・ロラン全集【19】』所収「アグリゲンツムのエンペドクレス」宮本正清訳 P184)
※5 みすず書房『ロマン・ロラン全集【36】』所収「どこから見ても美しい顔」宮本正清訳 P159


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ロラン自筆の献辞(作家アンリ・バシュラン宛)

みすず書房『ロマン・ロラン全集【19】』所収
「アグリゲンツムのエンペドクレス」宮本正清訳から

「肉体と魂の医者たる彼(エンペドクレス)は、
あらゆる傷手の上に身を屈める(中略)
人々のためにたんに天国への道を拓くのみならず、
この地上の国をより住みよいものにしようと努める。
彼は黒死病を終息させ、セリヌンテの領土を健康地たらしめ、
アグリゲンツムを地中海の海風から防ぐ。
社会闘争の陣頭に立つことも怖れない。
この闘争によって彼の町を暴君どもの手から解放し、
民主主義のために自由な地盤をあたえる。
彼は政治的平等を欲する。
人類の大家族の中に『正義の普遍的法則』を立てることを欲する。
愛情ぶかい彼の天性は弱い人々に対して親切である。
ピタゴラスやイエスのように、女子を彼の教会から排斥はしない。
女も彼の弟子である。老ミケランジェロと同じように、
貧しい娘たちに持参金をあたえようという優しい考えをいだく」(P207)

「利己主義とはなんという狂気だろう、またなんという盲目だろう!
もし自らを救おうとするならば、彼らを救わねばならない。
なんとなればお前はかつて彼らであったか、
それとも今後彼らになるからである。お前は彼らである」(P206)

「彼は生命を犯すことはすべて嫌悪する。
彼は戦争も、血腥い犠牲も、世界的な殺戮もひとしく非難する。
『憐れむべき者たち! お前たちは残酷な殺戮をけっして止めないのか?
狂人ども、お前たちは、愚かにも自分自身を殺していることが見えないのか?」(P209)

「『汎人類(パン・ユマニテ)』の太陽を
われわれの眼が見るまでは生きないとしても、かまいはしない!
それは現在(いま)からすでにある、
それを夢みるものの中にあるのだ」(P210~211)