万人に抗して戦う1人

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大義のためにたたかう文筆家にそなわっている
奪うことのできない力――動揺することを知らぬ
魂の不屈な良心(P10)
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本書に収められた「権力とたたかう良心」は1933年1月、ヒトラーのナチス政権誕生を機に執筆された。16世紀の宗教改革を舞台に、宗教的・政治的な「権力」を握って反対者を弾圧した独裁者カルヴァンに対し、特別な後ろ盾を持たない1人の神学者カステリオン=「良心」がペンで戦いを挑む物語だ。つまり「カステリオンは槍をとりあげる気でペンをとった。ツヴァイクもまったくおなじような気持で、カルヴァン――二十世紀ドイツの独裁者、歴史上の全独裁者を相手にペンを走らせているのである」(ドイツ文学者・和田洋一の評言、本書P365)。

しかし、本作は単純な独裁批判ではない。ツヴァイクはカルヴァンとカステリオンの対決を通じて、狂気の独裁者と保身から強い者に従う大衆、そして彼らに反抗し、追放される1人の反逆者・異端者という永遠の構図を浮き彫りにしている。いつの時代にも形を変えて存在する、万人に抗して戦う1人の姿を象徴的に描いたともいえるだろう。

カルヴィニズムの獣性は、誰の心にもある。宗教にのめり込んだり、組織で役職に就いたりすると、簡単にカルヴァンの横顔を覗かせる人は少なくない。私利のため、家族を守るため、平穏な日々のため強者に従う心理もまた、誰の心にもある。では、カステリオンの勇気は――? それも誰の心にもあると信じたい。

本書から
「この世のあらゆる権力者はひとりの人間をその思想ゆえに迫害する権利はない」(P9)

「この世の人間にそなわっている卑劣さはまことに抜きがたいものであるから、時代の権力者たちにたいして抗議の声をあげる人間は、自分に従う仲間はまずいないものと、いつも覚悟しなければならない」(P9~10)

「人間の連帯という考えに酔い痴れた民衆はみずから進んで隷属のなかにわが身を投げこんでいったし、彼らが鞭うたれているその鞭さえも讃美したのであった」(P13)

「すべての宗教的・政治的イデオロギーは、独裁の形をとるようになるとすぐに暴政に堕してしまう」(P14)

「道徳的な正義以外にはどんな力も背後にもたない孤立した個人が堅固な組織を相手にして抵抗する闘争が、はじめからどんなに見込みがないものであるかは、ひとびとが一度ならず思い知らされてきたところである」(P19)

「カルヴァンが現実の世界で勝利したのは、まさにこの強情なまでの自信、予言者的な狂信、偉大な偏執狂のおかげであった(中略)暗示にかかりやすい一般のひとびとが寛容な正義のひとに従ったためしは、かつて一度もない。彼らはつねに、自分の真理こそ唯一の真理であり、自分の意志こそ世の法律の基本原則だと公言してはばからないような偉大な偏執狂にだけ従うのである」(P46)

「(カルヴァンに焼き殺される神学者セルヴェートの言葉)世俗の判決は、神の問題に関してある人間が正しいか、あるいはまちがっているかの証明にはけっしてならない。殺すことは、説得することではない。誰ひとり、ぼくに証明してみせたものはない。ただ、息の根をとめようとしただけのことだ」(P172)

「権力はあらゆる時代にあたらしい形をとってあらわれてくるものであるから、思想上の仕事に従うひとびとの方でもまた、権力に抵抗するたたかいをたえずあたらしくはじめなければならない。いまのところ権力はあまりにも強大であるから、これに言葉で抵抗するのは無意味だなどという口実をもうけて逃げだしては絶対にいけない。言うべきことはいくら言われても言われすぎるということはないし、真実を発言してもそれがむだになるというようなことは絶対にありえないからである。たとえ言葉が勝利をおさめることはできないにしても、すくなくともその永遠な存在を証明することはできるし、このような危機のときにあたって発言するひとは、どんな恐怖政治も自由な魂を支配することはできないこと、どんなに非人間的な世紀でもなお人間らしい声があげられるだけの余地はあるということを立派に証明したわけである」(P223)

「世界がはじまって以来、あらゆる禍という禍はいつでも、自分たちの意見や世界観だけが唯一の正しいものだと性急に言い張った独断論から生れたものである」(239)

「術策を弄する場合には、道徳的な仮面をかぶり信心ぶかそうな眼を見ひらいてみせるのがおきまりだが、なんとも不愉快なことだ」(P262)

「いつの時代になっても、あらゆるカルヴァンに抵抗してひとりのカステリオンが起ちあがり、信念の自主性にたいする崇高な権利をあらゆる暴力からまもるであろう」(P321)