清澄な詩人のクレド

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まやかしの平和を
誇るものに
加担することは
出来ない
(「冬至」・P51)
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『上田秋夫詩集(1974)』は、高知県出身の詩人・上田秋夫の私家版詩集である。1971~73年に書かれた詩と回想、1930年に雑誌「ヨーロッパ」※に掲載された詩篇を収録している。

「ヨーロッパ」誌はロマン・ロランらによって創刊された文芸雑誌。ロランの友人でアベイ派の詩人ルネ・アルコスが長く主筆を務めた。

本書の刊行当時、上田は75歳。収録された16の詩篇には、清澄な眼差しで戦前・戦中・戦後の社会と人生を見つめてきた詩人のクレドがあふれている。

「私のうちなる声が
空間にみち
私は永遠のなかで
ただ一度自分の統一をみる」
(1930年5月ヨーロッパ誌掲載「遍歴」・P170)

「ここに生き
空しさを超えて
ひとつの真実を
つらぬきたい」(「開眼」・P11)

「まことの幸福は
とおくにあるのではなく
この身のまわりに
生きつづける」(「開眼」・P12)

「気高いものが
生きていることで
現実の不条理を
超えることが出来る」(「秘境」・P16)

「無辺際の
光があふれて
ひとつの運命が
はたされる

(中略)

生死を超えた
よろこびの環が
とおくひろがって
ひびきやめない」(「巡歴」・P47)

「あらゆる矛盾が
どこかで融和し
過ぎてゆくものが
使命を完了し
なにも残らないことを
すこしも悔いない

在るがままの
美しさを
あくまでも享受して
この荒涼の
時間を超えて
信念をつらぬく」(「約櫃」・P68)

「光はすでに
ふんだんにあふれ
すすむべき道は
ここに在る」(「新雪」・P109)

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上田自筆の献辞が入っている

1927年9月8日、上田はスイス・レマン湖畔のヴィルヌーヴに建つ「ヴィラ・オルガ」にロマン・ロランを初めて訪ねた。本書に収められた回想「戒壇」には、その時の様子が綴られている。遥か東方から来た1人の青年をもてなす慈父のようなロランの姿をよく伝えている。

「二階の仕事部屋から降りて来たロランは、なんと清朗だったことか。私はその偉大な手のなかに私のながい希望と祝福とを握りしめた」(「戒壇」・P236)

「ロランは濃紺の服を着て、大きな画嚢を抱いてあらわれた。そして静かにゲエテやベエトーヴェンやシラーの手稿を拡げた。カントやライピニッツやニーチェの手紙もあった。

ロランがピアノの前へいったとき、私になにを好むかときいた。私はベエトーヴェンの作品十番の三番を所望した。灯りを消して、ピアノの上の小さい赤いランプをつけて、ロランの指が鍵にふれた。それは若々しい目覚めの歌であった。ラルゴーのなかでロランの息がひびいた。

その次は、グルックの『オルフェ』であった。なんと浄らかなあくがれが、この湖に面した部屋からひろがって行ったことか」(「戒壇」・P236)

回想に引用されている上田宛のロランの手紙は現在もその価値を失っていない。

「現代という時代は、移り気ということを、はかない誇りにしているのです。海の波がジェリーのように揺り動かしているくらげにも似た時代です。あるいは今が非常に大切な時かも知れません。この大変動の時代の嵐に耐えぬくほど力強くないために、現代という時代はすべての変化に順応するので、あらゆる形をもっているのであり、しかもどんな形をも持っていないのです。私は最後まで頑張ります。場合によっては万人に抗する一人になります。まずその一人になることです。己れ自身であるところの人間にです(中略)偉大な魂は徒(いたずら)に譲歩することはなく、その一身を捧げることによって(ちょうどクリストフのように――『なんじら皆このさかずきより飲め、これはわが血なり』。)他の魂たちに自分らの光を伝えるのです。

あなたの光をお守りなさい。いずれ後になって、そのあなたの光がもっと弱い光を守ったり明るませたりするために。突風がその弱い光を吹き消そうとするときに、闇と闘うことです」(「戒壇」・P243~244)

普遍的なメッセージだと思う。