人類連帯の理想に燃えて

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いつも私を魅了してきた出版の世界、
そしてフランスのために成すべきことが多くあります。
平和が訪れたらお会いしましょう。
もし平和がいつの日かやってくれば、ですが。
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フランスの詩人ルネ・アルコスの自筆書簡である。文芸誌「La Gerbe」の編集長 Albert Gavy-Bélédin に宛てたもので1919年2月4日付。発信地はスイス・ジュネーヴ。アルコスは当時「シカゴ・デイリー・ニュース」紙の特派員として活動していた。

アルコスは1880年生まれ。ジョルジュ・デュアメルやシャルル・ヴィルドラック、ジュール・ロマンらと「アベイ派」を標榜したことで名高い。人類連帯の理想に燃え、ロマン・ロランらと創刊した「ヨーロッパ」誌の初代主筆としても活躍した。ロランは「これほど『人類の一致をうたった』詩人はいないと評し、大著『復活の歌』〈ベートーヴェンのミサ・ソレムニスなどの研究〉をアルコスにささげた」(「中央公論」1950年6月号 P112)

「苦悩に国境はない。『愛』にとってはなおさらである。
われらの詩人たちの多くは、人間的一致(ユニテ)を歌った。
他の誰よりもアルコスが力強く。感動的なことばで歌っている」
(山口三夫訳『ロマン・ロラン全集【18】』所収「先駆者たち」みすず書房 P205)

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「ヨーロッパ」誌1926年2月号
(ロマン・ロラン生誕60周年特集号・筆者所有)


本書簡は第1次大戦後の処理について討議したパリ講和会議中に書かれたもので、今後の自身の活動について知らせている。

「私は友人などの作品を豪華版のシリーズで出版する計画を立てています。
ロマン・ロランの未発表の作品から刊行を始めるつもりです」

第1次大戦中、ロランの原稿を載せるような新聞・雑誌はほとんどなかった。当時の様子についてアルコスは、「全世界に幾百万という読者をかぞえ、かつては多くの新聞が、とうてい応じてはもらえぬと知りつつも、寄稿を依頼して来たこの作家が、ついには名も知れないちっぽけな雑誌、それも広告主やお得意の間にただで配布される宣伝用の小冊子にしか原稿を載せることができなくなってしまったのだ。しかもそれさえ、そんなものをうちに持って来てもらっては困る、などという、底意地の悪い、ケチな店屋のおやじの文句を一再ならず受けながらである」(西本晃二訳「ロマン・ロランの思い出」『筑摩世界文学大系【54】』所収 筑摩書房 P385)と伝えている。

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「いつも私を魅了してきた出版の世界、
そしてフランスのために成すべきことが多くあります」

と本書簡に綴っているように、アルコスは出版社「サブリエ」を設立し、1919年に「多くの出版社が危惧して拒否したロマン・ロランの『LILULI(リリュリ)』の出版を敢行して有名になった」(朝吹登水子著『パリの男たち』人文書院 P161)。筆者が所有しているロラン著『愛と死との戯れ』の校正刷りもサブリエ版だ。

「(サブリエ社の本は)内容と外観とのあいだにうつくしい調和があって見飽きずまた読み飽きない」と、ドイツ・フランス文学者で詩人の片山敏彦は評している。「そういう本は無言の良友のようなもので、多忙な生活の寸暇をも、精神の灯で照らしてくれる無比の力を内具している」(片山敏彦文庫の会「片山敏彦文庫だより【6】」P12)

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(右から)ロマン・ロランとルネ・アルコス
(Rene Arcos "Romain Rolland" Mercure de France 1950・筆者所有)


ロランは1944年12月30日に亡くなった。アルコスは1人息子と愛妻にも先立たれた。第2次大戦後はあまり詩も書かなくなり、サブリエでの仕事を細々と続けた。

1959年、アルコスは脳溢血で死んだ。彼が暮らした家は日本人画家の菅井汲が買い取ったという(朝吹登水子著『パリの男たち』人文書院 P168)。