少数に愛された孤高の詩人

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ぼくは創造すること、書くことだけが願いなのだ
(1888年 ロマン・ロラン宛の手紙 P61)
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20世紀前半のフランス文学・思想界で重要な役割を果たしながら、正当に評価されてきたとは言いがたい孤高の詩人アンドレ・スュアレス(1868~1948)。本書は本邦初となる本格的な評伝である。名前の表記は従来「シュアレス」とするのが一般的だが、フランス語の発音に忠実な「スュアレス」を採用したという。

アンドレ・スュアレスとは何者か?

10歳でワーグナーを読解した生まれながらの音楽家。最高学府のエコール・ノルマルではロマン・ロランと同級で、ともに音楽や文学を語り合った作家。偽善や抑圧を憎み、冤罪事件でドレフュス大尉を擁護した行動する知識人。20世紀初頭から全体主義の恐怖を直観し、『わが闘争』の野蛮性・獣性を憤怒をもって弾劾した詩人。金融資本主義の危うさを警告し、ヨーロッパ統一を推奨した予見者。100冊以上の著作や2万通におよぶ書簡集を残しながら同時代に理解されること少なく、沈黙の陰謀を企てられた悲しきカッサンドラ――。

「生涯孤独で、反逆の人生を送った異形の精神のコンドッティエーレ、スュアレスは精神の絶対と美の探求者であると同時に、人間社会の虚偽や不正、不寛容を糺す『闘う作家』であり、文学の義勇兵、西欧文化のパルチザンでもあった」(P308~309)と著者は総括する。

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スュアレス著『生について』1925年版(筆者所有)。
スュアレスの自筆で献辞が入っている。
作家ピエール・フロンデェ(Pierre Frondaie)宛。


スュアレスが書いた本は売れなかった。初版300部が1冊も売れなかったこともあるという。海軍中尉だった弟からの仕送りや、妹夫婦の家に居候するなどして糊口をしのぐ有様だった。「創造すること、書くことだけが願いなのだ」という彼にとって、書いたものが受け入れられない現実は、無視できない苦痛だったに違いない。

「頭が狂いそうになる日がある。
自分が不幸のためだけに生きているようで恐ろしくなる……
これで倒れたら、もう立ち上がれないかもしれない……
唯一の薬? 仕事だ。それがない。今は何もない……
ぼくは孤独、孤独だ、恐ろしいほど孤独だ」
(友人ラティ宛の手紙 P111)

それでもスュアレスは書き続けた。「彼の場合『書くこと』はすぐれて『生きること』『闘うこと』と同義であった」(P32)と著者は指摘する。彼は「まだ前進し、自分自身の幸福のためではなくとも、作品とひとの幸福のために闘わなくてはならない」(ポトゥシェ宛の手紙 P124)と綴っている。書くことへの執着は、生涯変わることがなかった。

スュアレスは世間の無理解に苦しんだが、次第に彼を支える人物に恵まれるようになる。数少ない読者にはロダンやモネ、ドビュッシーがおり、ベルクソンはスュアレスの著書が出るたびに読後感を寄せて励ました。アンドレ・マルローやジョルジュ・デュアメルも彼の理解者である。経済的に生活を支援したメセナ(後援者)や、身近にいて公私を支えた女性たちの存在も大きい。

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限定500部の145番目。
「彼は、1925年版の『生について』の序文で、
『パリで、20年間、30冊の本を出したが、
取り上げてくれた新聞や雑誌の記事は20もなく、
僅かに認め称えてくれたのは7つもない。
批評家諸君は自らの党派や教団に属する三文文士や三流作品には、
ふんだんに賛辞をばらまくのだが……』、と嘆いている」(P189)


晩年になってスュアレスにも世俗的な名誉が訪れる。1935年、文学者協会大賞とアカデミー・フランセーズ文学大賞が贈られた。これらの賞を同じ年に同じ作家が受賞した例はないという。スュアレスは受賞を辞退しようとしたが、ベルクソンらの説得もあって受け入れた。

しかし、欧州の空には暗雲が広がり始めていた。スュアレスはヒトラーと『わが闘争』を激しく弾劾したが、独軍のポーランド侵攻を止めることはできなかった。第2次世界大戦の勃発である。

「かつてこれほどの偽善と粗暴残忍さが相俟って強まり、
人類を害することはなかった」(スュアレス P243)。

「最も醜悪な怪物が哀れなる人類に恐るべき災いの種をまき散らした。
私の予告は十分だったのか? それが押しつぶされてしまったのか?
カッサンドルの運命はまことに悲しい。
ダンツィヒで獣が吠え叫び、怒号するのが聞こえたばかりだ。
そのような怪物はこれまで見たことがない。
これは殺さねばならない。何世紀にも係わる数時間があるものだ」
(ポトゥシェ宛の手紙 P256)

1942年、74歳のスュアレスは対独レジスタンスに関係するようになる。彼の名前はゲシュタポの「オットー・リスト(焚書・著者名ブラックリスト)」に掲載されていたという。スュアレスがユダヤ出自であることも考え合わせれば、命の危険は絵空事ではなかった。ポケットに毒薬を忍ばせて万一に備えたこともあったようだ。

戦争の狂気が去ると、人生の終幕が迫ってきた。1948年9月7日、夜明けにベッドで身を起こし、「さあ、さあ、ここにいるぞ…」と叫んで倒れ込み、そのまま目を覚まさなかったという。享年80歳。遺灰は南仏レ・ボー・ド・プロヴァンスに葬られた。

「どんな道からも離れたところに葬ってくれ
いつもたったひとりで生きてきたから
大敗北者のぼくの沈黙の声を
空と風が聞いてくれるだろう
(詩集『アトラス』、1928年)」(P294)