匿名の権威への服従

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19世紀においては神が死んだことが問題だったが、
20世紀では人間が死んだことが問題なのだ(P401)
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本書はフロムの代表作『自由からの逃走』の続編である。人間は自由を求めて戦ったが、獲得した自由の重荷に耐え切れない。やがて自由から逃れて服従を求め、現代における偶像を崇拝するようになる――。フロムは本書で、20世紀の資本主義社会での生活も、異なる形態の「自由からの逃走」であることを示そうと試みたという。

フロムの優れた評伝を書いたゲルハルト・P・ナップは、「『正気の社会』は、フロムの作品のなかで三指に入るべきものである(中略)もっとふさわしい題は『狂気の社会』だったろう。その大部分が、資本主義の社会的病理の診断に当てられているからだ」(ゲルハルト・P・ナップ著/滝沢正樹・木下一哉訳『評伝エーリッヒ・フロム』新評論 P198)と指摘している。

フロムによれば「人間は『からの自由』に達したが、まだ『への自由』、すなわち自分らしくあること、生産的たること、完全に意識していること、には達しないでいる」(P396)。そして「われわれを脅かす公然たる権威はないが、われわれは、同調という匿名の権威の恐怖に支配されている」(P124)と説く。

「二十世紀の中葉において、権威はその性格を変えた。
すなわち、それは、明白な権威ではなく、
匿名の、目に見えない、疎外された権威である。
誰も、どんな考えも、どんな道徳律も要求はしない。
それにもかかわらず、われわれはすべて、
極度に権威主義的な社会におけるひとびとと同じように、
あるいはそれ位以上によく似ている。
じっさい『それ』以外に権威はないのである。
それとは何か? それは利益、経済的必要、市場、常識、世論、
『ひと』がしたり、考えたり、感じたりすることなのだ。
匿名の権威の法則は、市場の法則と同様に、目に見えないものであり――
まったく同じように議論の余地のないものである」(P177)

「匿名の権威がはたらくメカニズムは、同調である。
わたくしは、同調しなければならず、他と相違したり、
『はみ出し』てはならないから、誰もがすることをすべきである(中略)
わたくしは、自分が正しいか、間違っているかとたずねてはならないのであって、
適応しているか、『一風変って』はいないか、
他と異ってはいないかとたずねなければいけない」(P178)

つまり、資本主義社会には専制君主や独裁者などの明白な権威は存在しないが、周囲から仲間外れにされることを恐れるあまり、人びとは本当の自分とは無関係に、他者から承認を得られる存在でいることを重視するようになる。さらに労働の分業化・機械化は人間を社会の歯車とし、目先の欲望を満たすことが人生の目的になっていく。

「人間は機械の主人ではなくて機械の一部になった。
かれは自分じしんを商品であり、投資であると経験した。
成功すること、つまり、自分じしんを市場でできるだけ有利に売ることが、
かれの目的になってしまった。個人としてのかれの価値は、
愛情や理性、といった人間的な性質や、
かれの芸術的な能力にはなくて、かれの市場性にあるのだ。
幸福は、より新しいすぐれた商品を消費すること、
音楽、映画、冗談、性、酒および煙草に耽溺することと同義になってしまった。
大衆との同調があたえる以外に自己意識がないので、
人間は不安定になり、不安になり、ひとの承認にたよるようになる。
人間は自分じしんから疎外され、
みずからの手になる生産物や自分のつくった指導者を、
自分がつくったのではなくて、
自分よりも上にあるもののように崇拝している」(P396~397)

こうして人間性は殺される。

「疎外された人間は不幸だ。
楽しみのための消費は、自分の不幸に気づかせないようにする。
時間を節約しようと試みながら、しかも節約した時間をつぶすのに一生懸命だ。
『自分は自分だ』という経験だけがあたえてくれる熱意をもって、
新しい日を迎えるのではなくて、
失敗せず、恥をかかずに一日を終えたことを喜ぶのだ(中略)
かれは、なんの信仰ももたず、良心の声に耳を傾けず、
ものを操縦する知能はあっても、ほとんど理性をもっていないので、
途方にくれ、不安になって、かれにすべての解決をあたえてくれるひとに、
指導者の地位をよろこんであたえるのだ」(P234)

それに対して「正気の」人間とは、どのようなものか。

「精神的に健康な人間は、
生産的であり疎外されていない人間である。
すなわち、自分じしんを世界に愛情をこめて関係づけ、
現実を客観的に把握するために理性を用いる人間、
自分じしんを独特な、個人的な存在として経験すると同時に、
同胞と一体であると感じる人間、不合理的な権威に服従せず、
良心と理性の合理的な権威を、よろこんでうけいれる人間、
かれが生きているかぎり生れる過程にあり、
人生という贈物を、かれがもつもっとも貴重な機会だと
考えている人間なのである」(P309)

「人生の目的は、人生を熱心に生きること、
完全に生きぬくこと、完全に目ざめていることである。
子どもっぽい偉がりの考えから脱却して、
かぎられているが現実の力を確信すること、
誰もが宇宙における重要な存在であると同時に、
一匹の蠅や一本の草ほどの重要さかもしれない
という逆説がうけいれられることである。
人生を愛し、しかも死を恐怖なしにうけ入れられること、
人生がわれわれに直面させるもっとも重要な疑問の不確実さにたえ、
しかもわれわれの思考や感情が本当に自分のものであるかぎり
それらを信ずることなのだ。
独りでいられると同時に、愛するひととも、
この地球上のすべての同胞とも、
生きとし生けるすべてのものとも一体になれること、
良心の声、つまり自分じしんによびかける声にしたがい、
しかも良心の声が高くなくて、
それが聞えずしたがえなかったときにでも、
自己憎悪におちいらないことである。
精神的に健康なひととは、
愛情、理性および、信仰によって生きるひとであり、
自分の生活も、仲間の生活も尊重するひとである」(P232)

フロムが現代の日本を見たら、同じ警告を発するだろうか。もっと深刻な病理をえぐり出すだろうか。あらゆる価値が相対化され、多様化が進む現代社会には、社会全体に影響力を持つ支配的な匿名の権威は存在しにくいだろう。国民全体を巻き込む大きな物語は失われ、自らの存在意義や生きる意味を支えるかりそめの基盤さえ見いだせない人びとは、自分という存在の耐えられない軽さや生の空虚に悩む。

特に日本の若い世代は、他人の評価に左右されず、自分の価値を中立的に把握・判断する自尊感情が低く、自己を肯定的にとらえにくいという(古荘純一著『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』光文社新書)。そして自尊感情が低い若者たちは「身近な人間からつねに承認を得ることなくして、不安定な自己を支えきれないと感じている」(土井隆義著『友だち地獄』ちくま新書 P99)。

不確かで脆弱な自己の基盤を補強するため、自分の存在を確認できる「つながり」や「絆」を強調・依存し、自分を肯定的に見つめてくれる人間関係からの圏外化を恐れる――。これが現代社会における匿名の権威への服従の姿だろうか。

「今日、人間はもっとも根本的な選択、
すなわち資本主義か共産主義かではなくて、
ロボット化(資本主義的と共産主義的のちがいはあるが)か、
それとも人間的な共同主義的な社会主義かの選択に直面している。
多くのじじつからみると、人間はロボット化を選んでいるように思われるが、
それはけっきょく狂気と破壊を意味するのだ。しかしすべてこれらのじじつは、
人間の理性、善意および正気にたいする信仰を破壊するほど、強くはない。
われわれがともに相談し、ともに計画できるかぎり、希望がもてる」(P404)

フロムの信条は「顔の見える社会主義(ヒューマニスト・ソーシャリズム)」だったというが、現代は「ともに相談し、ともに計画」することも難しくなっているように思う。「正気の社会」への道のりは遠く、険しい。