実り豊かな思想
~~~~~~~~~~
真の勇気は懐疑から始まる。
信じている思想を揺り動かす考えは、
勇気のある考えである。
新しい思想の発見者はすべて、
だれも疑っていなかったことを疑ったのだ(P149~150)
~~~~~~~~~~

本書はフランスの哲学者アランの「プロポ(語録)」を集めたものである。春・夏・秋・冬の季節に分けて、自然との関わりの中で人間を見つめた51篇を収める。
プロポはアランが生み出した文学形式で、1篇を便箋1枚・2ページで書く。アランは試行錯誤の末に1行40余字・40余行というプロポのスタイルを確立し、1906年から第1次大戦勃発までの約8年半(3120日間)に3098篇を残した。大戦終結後に発表したものを合わせると、プロポ全体の数は約5000篇に上る(山崎庸一郎訳『アラン プロポⅠ』みすず書房)。
アランのプロポは修正や推敲が少なく、一気に書き上げられているという。軽やかで短い文章に、奥深く濃密なアランの世界観が凝縮されている。
①「序に代えて」から
「運命は求めたり変えようとしなくても、
うかがうことができる。この世はメタファーを投げかけている」(P6)
「ふと見られる人間のしるしの何と多いことか。
ペンの走りは風のよう、火の粉のようでなければならない。
そこには一つの観念からそのすぐ隣の観念を導出する従来の秩序はなく、
もう一つの秩序が生まれている(中略)もう一つの秩序とは『健康』である。
なぜなら、哲学には『石』のような哲学もあれば、『幸福』な哲学もあるからだ。
これこそ幸福な哲学である」(P7)
②「春」から
「太陽が地平線から高く昇れば昇るほど北極の風が吹いてくる」(P13)
「ぼくは人生の艱難の中から、
ぼくのすぐ近くに神が確かにいることを知った。
それがわかった。その神とは人間のことだ。
人間への信仰、人間への讃美をぼくはみとめる」(P21)
「何が問題なのかが完全にわかったら、その問題は解決されている。
したがって解決とは問いの真に明晰な把握にほかならない。
7と5とを同時に正確に理解したとき、ぼくは12を理解する。
もの〔オブジェクト〕は何も変わっていない。
ぼくの理解が深まっただけだ。何も動いてはいない。
この意味で変わるというのは外的なことではない」(P29)
「ぼくのすべての思想が成熟し老いていく。
早いのか遅いのか。何とも言えない。
だって、何も動かない、何も変わらないのだから。
ものが動こうが動くまいが、この思想はかならず老いる。
わが想い、めざめたその最初の想いよ、さらば。
もうその想いはない。二度とあらわれない。
なぜなら、それはいつも同じ対象だから。
いっさいがそれに関与している。
ものというのは自己を取り巻くさまざまな他のものによって、
はじめて、自己をあらわにする」(P30)
「小説のなかではすべてがめざめであり、
発見でなければならない。しかも同じ対象において(中略)
ほんとうの小説というのはいわば旅に出かけているようなものだ。
それは時のなかの旅である。
そこでは動いているものは偶然の出来事であり、二次的なものである(中略)
ものをあるがままに、ではなく、見出されたものを」(P31)
「人間は水と岩とからなっている。
水によって若返り、岩によって老いる。
ところで人はあまりに老いるほうを好む。
〔哲学の祖と称される〕タレスは、
万物は水からなっていると言った。至言である。
不動のものをより深く確信したこの幾何学者は、
山も水のように流れるのを見たと、ぼくは理解する。
海の人間である自分自身を思いおこしながら、
このイオニア人は流動的で
忘れっぽいものをとどめようとした」(P41)
「羊たちにとって
羊飼いは神のようなもので、
その声が聞こえなくなったら、
羊たちはすべてがお終いだと思っている(中略)
なるほど羊飼いは羊たちのことを深く思っている、
羊たちのためを考えている。
主人が正体をあらわすのは喉をかき切られる時だ。
しかしそれはあっという間でそれだけのことだ、
彼らの考えを変えるところまでいかない」(P47)
「たとえ血まみれの台の上に寝かされていても、
彼はまだ眼で恩人を求める。そして彼が間近で
自分に気を配っているのを見ると、
子羊はあり得るかぎりの勇気をこころに見出す。
刃はその時、刺し通す。その時、答えは見つかるけれど
同時に問題も消える」(P49)
「自分でものを捉え直す学び方、
現実の仕事の経験から生まれた教え、
ものの重さを、抵抗を、摩擦を、時間の価値を知る教えについては、
すべての人間が学んだわけではない(中略)
大きな子どもたちがいるのだ。
われわれの世界では彼らのほうが優勢なのだ。
ばかげた大げさな教訓というのは、まだ成熟していない、
何も知らない人々からわれわれのところへやってくる。
人間の諸要素はこの幼稚さによって、
かなりのところ説明がつく。現代の知者たちは
子どもたちがかわいらしい言葉でなにかをもらうように、
気の利いた言葉を言って手に入れた
無賃乗車証をもって豪華列車にのる」(P51~52)
「懐疑は精神の塩である。
懐疑の切っ先がないと、どんな知識もすぐに腐ってしまう。
どんなに根拠があり、どんなに合理的な知識でも、である。
間違えたことや、騙されたことに気づいて疑うのは易しい。
それはほとんど役に立たないとさえ言いたい。
そういう強いられた懐疑は、
われわれの身に降りかかった暴力のようなものだ」(P54)
「信じることは心地いい。
それは断ち切らねばならぬ陶酔だ。
さもなければ、自由、正義、平和とはおさらばである」(P54)
「疑うすべを知ることを期待する。それが人間のしるしだから」(P55)
「一年の間、上のほうでも下でも眠りこむ幸福が現われる。
また、これらの集会のなかに、ほんとうの信者もいる。
ぼくが赤毛のロバと呼んでいる、縛り付けられない、
何も信じない少数の人々だ。彼らは信仰をもっている。
救いとなる信仰を」(P57)
②「夏」から
「人間の喜びや感謝の念の突然の顕現は、
花の開花と変わらないのだ。
すべてのものが祝福されている。
それが祈り、それが感謝なのだ」(P61)
「より強靭な、より孤独な精神であろうとする者は、
祭りはちょっとしか祝わないものだ。
彼らは詩や音楽や絵画で別の祭りを祝う(中略)
真の詩人は宇宙の祭りを祝おうとし、その影と踊る。
人はみな、最初は詩人である。だから、
われわれは小さい羽虫のように太陽に踊るのだ」(P66)
「ひとは季節とともに生きなければならない」(P73)
「生まれること、愛すること、働くこと、考えること。
宇宙は今あるこのすがたで充足している。
これらの根元的営為は倦むことなし。
宇宙と人間とのこの厳しい調和。生の憲章。平和の憲章。
だれもがそれには同意している。
それをかたく守る者は幸いである」(P76~77)
「精神は狂信である。精神は暴力である。
精神は誘惑者である、なぜなら、要求しすぎるから、
不可能なことを要求するから。人間の精神は人間の精神を求める、
だが、それは得られない。人間が生きているために必要な第一のものは、
赦しである」(P80)
「精神はつねに、自分がそうしようと思っている以上に、
暴君であろう。ヴォルテールとルソーはののしり合う。
人々がまだ仲良くなれないのはおかしいと思わないのか!
彼ら二人はもう少しで理解し合えた。憎悪が巣を、
心地よい巣をつくったのは、彼らが今にも
理解し合えるところにいたからだ」(P81)
「騎士道は甘いものではなかった。
名誉は厳しいものだ。自分に誇りをもつのが困難であればあるだけなおさら。
敵の存在は、自己と名誉とが和解するための犠牲である」(P82)
「重大なことと馬鹿なことが、同じ歩調で動いている」(P83)
「詩の心はほんの小さな対象物から巨大な世界を、
天国から地獄までの世界を包含する(中略)
詩人の学校に入らなかったら、ちょっとした観察のなかに遠大なものが、
深いものが、インスピレーションがあることを理解できない」(P86)
「ためらいが、やり始めたもののそれをし遂げない半端な行為が、
いつだって弱さのしるしであることは真実だ」(P88)
「迫害のなかに名誉などあるはずがない(中略)
人間の悪には、ここで終わりという一線がない。
それゆえ、人間には気をつけろ」(P95)
「毎朝、人間に立ちかえらねばならない。
そして一日中、運命に打ち克たねばならない。
すなわち恐怖と怒りと、その両者の娘である残忍さとに
打ち克たねばならないのだ」(P106)
③「秋」から
「人間が悪いひとになるのは、
人間という種が本来そうだというのではけっしてない。
ただちょっと、たまたま傷を受けてしまったのだ。
そういうわけだから、人間の悪意というのは人間に固有のものではない。
悪意は人間のなかにいるふしあわせ者みたいだ。
あるいは人間がまとう衣裳みたいなものだ」(P134)
「人々が集まることによって、人間精神が引っ込む。
戦争はそのことを確証している。確証すぎるほどの証拠だ、
なぜなら、戦争はわれわれを酔わせるから。
ぶどう酒のように。反対であれ、賛成であれ。
酔いには三段階あることは、だれでも知っている。
サルのように真似る人、獅子のように吠える人、豚のように寝る人。
この第三の人物が表しているのは生理的欲求の支配であり、
諦めで染まった泉である。乗り越えることのできない柵。
なぜなら、自分が考えねばならないことを
みんなに訊いているのだから。
ひとはだれもそんなにばか者ではない。
みんなそれぞれ自分なりに思惟をめぐらせている。
ひとは一人静かに自己の裡(うち)で考える。
ある瞑想の書(テクスト)にしたがって考える。
が、これもまた群(むれ)である。見えざる群。
この、ほんの一瞬「否」を言うだけで十分だろう、
争いごとを通して、人間集団が
恐るべき獣ともなりうることがわかれば」(P140)
「行進する者たちがどう考え、何を意図し、
何を好み、何を嫌っているか、ときみは問う。
彼らはまったく、しあわせなのだ。
自分の行進が好きで、自分が強い者、勝利者、
不死なる者と感じている。
ここには、観想宗教であれ行動宗教であれ、
すべての宗教の誕生が見える。
また、ある集団の考えをもち、
それが何であるかを知らない人々によくある
狂信の誕生が見える。
離反や批判は行進する者によっていつも排除され、
嫌われている。なぜなら離反や批判は
何を考えているかを知らねばならないから。
狂信はしばしば、認められること、
また説明されることでさえもいらだっている。
真の信者はあかしを拒否する。
たいへん用心深く、あかしを拒否するのだ。
なぜなら、あかしは大冒険であるから」(P144)
「どこかに離反者がいると考えただけで、
全世界の人々がまだ改宗していないと考えただけで、
狂信はすぐに、もっとも愚かな人間の企てである
戦争へと駆り立てる」(P144)
「台風や火山の噴火のような
大災害しか恐れない国では、だれも自分を当てにしない、
だれも自分の運命を切り開こうとは考えない。
眠りから怒りへと、こうして精神は駆り立てられる。
このような思考体制は、
せいぜい独裁者を他の独裁者に変えるだけである。
政治的自由を生み出すためには多大な智謀が必要である。
それを守るためにはさらに多くの智謀が必要である」(P147)
「真の勇気は懐疑から始まる。
信じている思想を揺り動かす考えは、
勇気のある考えである。新しい思想の発見者はすべて、
だれも疑っていなかったことを疑ったのだ」(P149~150)
④「冬」から
「母たちは言う(中略)
『ただ人間となることだけを考えなさい。
人間だけにできることができるように、
人間だけがあえてやることを大胆にやれるように、
自分の精神の均衡にしたがって考えるように。
そのためには、すべての人間の名誉であり
その真の祖国である十人ほどの人が模範として役立つだろう。
ホメロス、シェイクスピア、モリエール、ゲーテ、ユゴー、
また同じく、アルキメデス、ケプラー、デカルト、ニュートン。
彼らはあなたに、すべての人間が兄弟であることを
あかししてくれるだろう。なぜなら、
彼らはまさに大いなる人間の国をなしているから。
彼らに従いなさい。そして彼ら以外のだれにも従ってはならない。
なぜなら、どんなに注意深く考えても、
われわれは愚かなことしか言えず、すぐに否定されてしまうから。
われわれはあなたに、大きな学校を建てるだろう。
そこから偉大な人間が生まれるように。
彼らとともにいることによって、
あなたはまったく無邪気で自由奔放でありながら、
その苦労に値する文明をすべて学ぶだろう。
そうなったら、あなたはわれわれを少し怖がらせるだろう。
もじゃもじゃひげの老人たちはかなり怖がるだろう。
なぜなら、十歳まで永遠の人間たちとしか
つき合わなかったあなたには、
われわれが膝までつかっている過ちなど、
思いもよらないことだろうから』と」(P165~166)
「われわれは、大切な子どもたちが力ずくで、
うまい言葉で連れて行かれるのを許さない。
それどころか、われわれは老練な者の人垣をつくり
堅持するだろう。この人垣のうしろには、
若者たちが三十三歳を超えて生きてほしいという希望がある。
それは神である人間が、完全に人間となった年齢である」(P168)
「経験を狂信した人たちは、
しばしば狂人の言葉を事実として確認することから、
彼らが狂人の幻覚を事実として確認したという思いに、
知らない間に移行してしまうのだ。
話が感動的であること、また(幻を見た人たちには
まことに当たり前であるが)話がうまいこと、
そういうことには、ぼくはまったく驚かない。
なぜなら、彼らは信じたがっているのだから、
信じさせたがっているのだから(中略)
それが許されたなら、
信じようとまったくしたがらない人たちの、
見たとは思いたがらない人たちの
処刑にまで及ぶだろう」(P187)
「彼(※ゲーテ)は『永遠』をも見ていた。
『人間はすべて、その本来の場所では永遠である』と彼は言った。
芸術とは、愚弄することのないこの記憶である」(P193)
「事物はどんな進歩もしない。
ただバランスをとっているだけだ」(P208)
「人はみんな、最後の審判の日には曲がり角に立つ。
自分を裁くのは自分自身なのだ。
自分の好きなように自分を裁く」(P208)
「指導者の徳は権力を愛すること以外にない。
それで十分である。ただし、偽ってはならない。
もしきみが、ただ自由と正義のために力を愛するというのなら、
きみはそのためにぴったりと調整された、
ほんのわずかの超過もない力を持つだろう」(P209)
「プラトンを理解するというのだけでは、
それほど大したことではないから。自分がプラトンとなって、
困難な思索の道を突き進まねばならないから」(P222)
「芸術とは、乖離と対立とから秩序を得るものなのだ」(P223)
「詩はおそらく、すべての芸術の集合である」(P223)
~~~~~~~~~~
真の勇気は懐疑から始まる。
信じている思想を揺り動かす考えは、
勇気のある考えである。
新しい思想の発見者はすべて、
だれも疑っていなかったことを疑ったのだ(P149~150)
~~~~~~~~~~

本書はフランスの哲学者アランの「プロポ(語録)」を集めたものである。春・夏・秋・冬の季節に分けて、自然との関わりの中で人間を見つめた51篇を収める。
プロポはアランが生み出した文学形式で、1篇を便箋1枚・2ページで書く。アランは試行錯誤の末に1行40余字・40余行というプロポのスタイルを確立し、1906年から第1次大戦勃発までの約8年半(3120日間)に3098篇を残した。大戦終結後に発表したものを合わせると、プロポ全体の数は約5000篇に上る(山崎庸一郎訳『アラン プロポⅠ』みすず書房)。
アランのプロポは修正や推敲が少なく、一気に書き上げられているという。軽やかで短い文章に、奥深く濃密なアランの世界観が凝縮されている。
①「序に代えて」から
「運命は求めたり変えようとしなくても、
うかがうことができる。この世はメタファーを投げかけている」(P6)
「ふと見られる人間のしるしの何と多いことか。
ペンの走りは風のよう、火の粉のようでなければならない。
そこには一つの観念からそのすぐ隣の観念を導出する従来の秩序はなく、
もう一つの秩序が生まれている(中略)もう一つの秩序とは『健康』である。
なぜなら、哲学には『石』のような哲学もあれば、『幸福』な哲学もあるからだ。
これこそ幸福な哲学である」(P7)
②「春」から
「太陽が地平線から高く昇れば昇るほど北極の風が吹いてくる」(P13)
「ぼくは人生の艱難の中から、
ぼくのすぐ近くに神が確かにいることを知った。
それがわかった。その神とは人間のことだ。
人間への信仰、人間への讃美をぼくはみとめる」(P21)
「何が問題なのかが完全にわかったら、その問題は解決されている。
したがって解決とは問いの真に明晰な把握にほかならない。
7と5とを同時に正確に理解したとき、ぼくは12を理解する。
もの〔オブジェクト〕は何も変わっていない。
ぼくの理解が深まっただけだ。何も動いてはいない。
この意味で変わるというのは外的なことではない」(P29)
「ぼくのすべての思想が成熟し老いていく。
早いのか遅いのか。何とも言えない。
だって、何も動かない、何も変わらないのだから。
ものが動こうが動くまいが、この思想はかならず老いる。
わが想い、めざめたその最初の想いよ、さらば。
もうその想いはない。二度とあらわれない。
なぜなら、それはいつも同じ対象だから。
いっさいがそれに関与している。
ものというのは自己を取り巻くさまざまな他のものによって、
はじめて、自己をあらわにする」(P30)
「小説のなかではすべてがめざめであり、
発見でなければならない。しかも同じ対象において(中略)
ほんとうの小説というのはいわば旅に出かけているようなものだ。
それは時のなかの旅である。
そこでは動いているものは偶然の出来事であり、二次的なものである(中略)
ものをあるがままに、ではなく、見出されたものを」(P31)
「人間は水と岩とからなっている。
水によって若返り、岩によって老いる。
ところで人はあまりに老いるほうを好む。
〔哲学の祖と称される〕タレスは、
万物は水からなっていると言った。至言である。
不動のものをより深く確信したこの幾何学者は、
山も水のように流れるのを見たと、ぼくは理解する。
海の人間である自分自身を思いおこしながら、
このイオニア人は流動的で
忘れっぽいものをとどめようとした」(P41)
「羊たちにとって
羊飼いは神のようなもので、
その声が聞こえなくなったら、
羊たちはすべてがお終いだと思っている(中略)
なるほど羊飼いは羊たちのことを深く思っている、
羊たちのためを考えている。
主人が正体をあらわすのは喉をかき切られる時だ。
しかしそれはあっという間でそれだけのことだ、
彼らの考えを変えるところまでいかない」(P47)
「たとえ血まみれの台の上に寝かされていても、
彼はまだ眼で恩人を求める。そして彼が間近で
自分に気を配っているのを見ると、
子羊はあり得るかぎりの勇気をこころに見出す。
刃はその時、刺し通す。その時、答えは見つかるけれど
同時に問題も消える」(P49)
「自分でものを捉え直す学び方、
現実の仕事の経験から生まれた教え、
ものの重さを、抵抗を、摩擦を、時間の価値を知る教えについては、
すべての人間が学んだわけではない(中略)
大きな子どもたちがいるのだ。
われわれの世界では彼らのほうが優勢なのだ。
ばかげた大げさな教訓というのは、まだ成熟していない、
何も知らない人々からわれわれのところへやってくる。
人間の諸要素はこの幼稚さによって、
かなりのところ説明がつく。現代の知者たちは
子どもたちがかわいらしい言葉でなにかをもらうように、
気の利いた言葉を言って手に入れた
無賃乗車証をもって豪華列車にのる」(P51~52)
「懐疑は精神の塩である。
懐疑の切っ先がないと、どんな知識もすぐに腐ってしまう。
どんなに根拠があり、どんなに合理的な知識でも、である。
間違えたことや、騙されたことに気づいて疑うのは易しい。
それはほとんど役に立たないとさえ言いたい。
そういう強いられた懐疑は、
われわれの身に降りかかった暴力のようなものだ」(P54)
「信じることは心地いい。
それは断ち切らねばならぬ陶酔だ。
さもなければ、自由、正義、平和とはおさらばである」(P54)
「疑うすべを知ることを期待する。それが人間のしるしだから」(P55)
「一年の間、上のほうでも下でも眠りこむ幸福が現われる。
また、これらの集会のなかに、ほんとうの信者もいる。
ぼくが赤毛のロバと呼んでいる、縛り付けられない、
何も信じない少数の人々だ。彼らは信仰をもっている。
救いとなる信仰を」(P57)
②「夏」から
「人間の喜びや感謝の念の突然の顕現は、
花の開花と変わらないのだ。
すべてのものが祝福されている。
それが祈り、それが感謝なのだ」(P61)
「より強靭な、より孤独な精神であろうとする者は、
祭りはちょっとしか祝わないものだ。
彼らは詩や音楽や絵画で別の祭りを祝う(中略)
真の詩人は宇宙の祭りを祝おうとし、その影と踊る。
人はみな、最初は詩人である。だから、
われわれは小さい羽虫のように太陽に踊るのだ」(P66)
「ひとは季節とともに生きなければならない」(P73)
「生まれること、愛すること、働くこと、考えること。
宇宙は今あるこのすがたで充足している。
これらの根元的営為は倦むことなし。
宇宙と人間とのこの厳しい調和。生の憲章。平和の憲章。
だれもがそれには同意している。
それをかたく守る者は幸いである」(P76~77)
「精神は狂信である。精神は暴力である。
精神は誘惑者である、なぜなら、要求しすぎるから、
不可能なことを要求するから。人間の精神は人間の精神を求める、
だが、それは得られない。人間が生きているために必要な第一のものは、
赦しである」(P80)
「精神はつねに、自分がそうしようと思っている以上に、
暴君であろう。ヴォルテールとルソーはののしり合う。
人々がまだ仲良くなれないのはおかしいと思わないのか!
彼ら二人はもう少しで理解し合えた。憎悪が巣を、
心地よい巣をつくったのは、彼らが今にも
理解し合えるところにいたからだ」(P81)
「騎士道は甘いものではなかった。
名誉は厳しいものだ。自分に誇りをもつのが困難であればあるだけなおさら。
敵の存在は、自己と名誉とが和解するための犠牲である」(P82)
「重大なことと馬鹿なことが、同じ歩調で動いている」(P83)
「詩の心はほんの小さな対象物から巨大な世界を、
天国から地獄までの世界を包含する(中略)
詩人の学校に入らなかったら、ちょっとした観察のなかに遠大なものが、
深いものが、インスピレーションがあることを理解できない」(P86)
「ためらいが、やり始めたもののそれをし遂げない半端な行為が、
いつだって弱さのしるしであることは真実だ」(P88)
「迫害のなかに名誉などあるはずがない(中略)
人間の悪には、ここで終わりという一線がない。
それゆえ、人間には気をつけろ」(P95)
「毎朝、人間に立ちかえらねばならない。
そして一日中、運命に打ち克たねばならない。
すなわち恐怖と怒りと、その両者の娘である残忍さとに
打ち克たねばならないのだ」(P106)
③「秋」から
「人間が悪いひとになるのは、
人間という種が本来そうだというのではけっしてない。
ただちょっと、たまたま傷を受けてしまったのだ。
そういうわけだから、人間の悪意というのは人間に固有のものではない。
悪意は人間のなかにいるふしあわせ者みたいだ。
あるいは人間がまとう衣裳みたいなものだ」(P134)
「人々が集まることによって、人間精神が引っ込む。
戦争はそのことを確証している。確証すぎるほどの証拠だ、
なぜなら、戦争はわれわれを酔わせるから。
ぶどう酒のように。反対であれ、賛成であれ。
酔いには三段階あることは、だれでも知っている。
サルのように真似る人、獅子のように吠える人、豚のように寝る人。
この第三の人物が表しているのは生理的欲求の支配であり、
諦めで染まった泉である。乗り越えることのできない柵。
なぜなら、自分が考えねばならないことを
みんなに訊いているのだから。
ひとはだれもそんなにばか者ではない。
みんなそれぞれ自分なりに思惟をめぐらせている。
ひとは一人静かに自己の裡(うち)で考える。
ある瞑想の書(テクスト)にしたがって考える。
が、これもまた群(むれ)である。見えざる群。
この、ほんの一瞬「否」を言うだけで十分だろう、
争いごとを通して、人間集団が
恐るべき獣ともなりうることがわかれば」(P140)
「行進する者たちがどう考え、何を意図し、
何を好み、何を嫌っているか、ときみは問う。
彼らはまったく、しあわせなのだ。
自分の行進が好きで、自分が強い者、勝利者、
不死なる者と感じている。
ここには、観想宗教であれ行動宗教であれ、
すべての宗教の誕生が見える。
また、ある集団の考えをもち、
それが何であるかを知らない人々によくある
狂信の誕生が見える。
離反や批判は行進する者によっていつも排除され、
嫌われている。なぜなら離反や批判は
何を考えているかを知らねばならないから。
狂信はしばしば、認められること、
また説明されることでさえもいらだっている。
真の信者はあかしを拒否する。
たいへん用心深く、あかしを拒否するのだ。
なぜなら、あかしは大冒険であるから」(P144)
「どこかに離反者がいると考えただけで、
全世界の人々がまだ改宗していないと考えただけで、
狂信はすぐに、もっとも愚かな人間の企てである
戦争へと駆り立てる」(P144)
「台風や火山の噴火のような
大災害しか恐れない国では、だれも自分を当てにしない、
だれも自分の運命を切り開こうとは考えない。
眠りから怒りへと、こうして精神は駆り立てられる。
このような思考体制は、
せいぜい独裁者を他の独裁者に変えるだけである。
政治的自由を生み出すためには多大な智謀が必要である。
それを守るためにはさらに多くの智謀が必要である」(P147)
「真の勇気は懐疑から始まる。
信じている思想を揺り動かす考えは、
勇気のある考えである。新しい思想の発見者はすべて、
だれも疑っていなかったことを疑ったのだ」(P149~150)
④「冬」から
「母たちは言う(中略)
『ただ人間となることだけを考えなさい。
人間だけにできることができるように、
人間だけがあえてやることを大胆にやれるように、
自分の精神の均衡にしたがって考えるように。
そのためには、すべての人間の名誉であり
その真の祖国である十人ほどの人が模範として役立つだろう。
ホメロス、シェイクスピア、モリエール、ゲーテ、ユゴー、
また同じく、アルキメデス、ケプラー、デカルト、ニュートン。
彼らはあなたに、すべての人間が兄弟であることを
あかししてくれるだろう。なぜなら、
彼らはまさに大いなる人間の国をなしているから。
彼らに従いなさい。そして彼ら以外のだれにも従ってはならない。
なぜなら、どんなに注意深く考えても、
われわれは愚かなことしか言えず、すぐに否定されてしまうから。
われわれはあなたに、大きな学校を建てるだろう。
そこから偉大な人間が生まれるように。
彼らとともにいることによって、
あなたはまったく無邪気で自由奔放でありながら、
その苦労に値する文明をすべて学ぶだろう。
そうなったら、あなたはわれわれを少し怖がらせるだろう。
もじゃもじゃひげの老人たちはかなり怖がるだろう。
なぜなら、十歳まで永遠の人間たちとしか
つき合わなかったあなたには、
われわれが膝までつかっている過ちなど、
思いもよらないことだろうから』と」(P165~166)
「われわれは、大切な子どもたちが力ずくで、
うまい言葉で連れて行かれるのを許さない。
それどころか、われわれは老練な者の人垣をつくり
堅持するだろう。この人垣のうしろには、
若者たちが三十三歳を超えて生きてほしいという希望がある。
それは神である人間が、完全に人間となった年齢である」(P168)
「経験を狂信した人たちは、
しばしば狂人の言葉を事実として確認することから、
彼らが狂人の幻覚を事実として確認したという思いに、
知らない間に移行してしまうのだ。
話が感動的であること、また(幻を見た人たちには
まことに当たり前であるが)話がうまいこと、
そういうことには、ぼくはまったく驚かない。
なぜなら、彼らは信じたがっているのだから、
信じさせたがっているのだから(中略)
それが許されたなら、
信じようとまったくしたがらない人たちの、
見たとは思いたがらない人たちの
処刑にまで及ぶだろう」(P187)
「彼(※ゲーテ)は『永遠』をも見ていた。
『人間はすべて、その本来の場所では永遠である』と彼は言った。
芸術とは、愚弄することのないこの記憶である」(P193)
「事物はどんな進歩もしない。
ただバランスをとっているだけだ」(P208)
「人はみんな、最後の審判の日には曲がり角に立つ。
自分を裁くのは自分自身なのだ。
自分の好きなように自分を裁く」(P208)
「指導者の徳は権力を愛すること以外にない。
それで十分である。ただし、偽ってはならない。
もしきみが、ただ自由と正義のために力を愛するというのなら、
きみはそのためにぴったりと調整された、
ほんのわずかの超過もない力を持つだろう」(P209)
「プラトンを理解するというのだけでは、
それほど大したことではないから。自分がプラトンとなって、
困難な思索の道を突き進まねばならないから」(P222)
「芸術とは、乖離と対立とから秩序を得るものなのだ」(P223)
「詩はおそらく、すべての芸術の集合である」(P223)
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