美の秘密を探る

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それ自体で素晴らしいデッサンを讃えるという、
あなたにふさわしい幸福が訪れますように
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本書はフランスの哲学者アランが序文を執筆した画集『アングル』(エディシオン・デュ・ディマンシュ刊)である。シリーズ「複製画叢書《半神たち》」の1冊で、1949年に出た。フランスの作家アンドレ・モロワの妻シモーヌの旧蔵書で、アランがシモーヌ宛に献辞を書き込んでいる。

「シモーヌ・アンドレ・モロワに

意図的にではないでしょうが、
あなたが本書に残しておいたはずのページ
(※アンドレ・モロワによる論評のことか?)を読むことができませんでした。
だからといって、あなたのように注意深く、
優れた読者に読んでもらえる喜びが減るわけではありません。
読んでもらえて嬉しかったと、はっきり申し上げましょう。

絶対の直観に基づき『結果として弁証法的』な私のやり方は、
有産階級のエリートであるあなたを驚かせたかもしれません。
私の方法が十分でないことはよく分かっています。
でも理念がどのように作品を創りあげるか、
あなたはすでに察しておられるでしょうし、
きっと理解してくださると思います。

それ自体で素晴らしいデッサンを讃えるという、
あなたにふさわしい幸福が訪れますように。
クリスマスと新年のためにそう願っています。

あなたへ アラン
1949年12月28日」

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シモーヌの蔵書票が貼られている

19世紀フランスの画家アングルを取り上げた本書は、118点の図版(うちカラー図版8点)を収録している。限定500部が制作された。アランの序文「アングル あるいはデッサンと色彩の対立」の邦訳は、山崎庸一郎編訳『アラン 芸術について』みすず書房に収録されている。

【みすず書房『アラン 芸術について』所収
「アングル あるいはデッサンと色彩の対立」山崎庸一郎訳から】

「まもなく刊行されるみごとな複製叢書のために
ここに序文を書くにあたって、わたしはよく知られた原則、
『デッサンは芸術の誠実さ(プロビテ)である』を
引用しないではいられない。そして、この原則から、
ただ単に、アングルはデッサンがおのれにとって
重要であるとされた画家だったという結論を引き出すだろう」(P161)

「矛盾からなにかを引き出すためには、
まずその矛盾をとことんまで押しすすめなければならない」(P161~162)

「彼(※アングル)はこう言っているのだ。
色彩は輪郭に沿って置かれてはならず、
輪郭のうえに置かれねばならない、と。
この場合、色彩がデッサンを消し去ることは一目瞭然である。
わたしは、アングルがそういうことを考えていたと言いたいのではない。
そうではなくて、そのように描いたと言いたい。
そして、この分離、この対立を
アングルの思想(パンセ)と名づけたいのだ」(P162)

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「画家はあらゆる人間のうちで
いちばん自分の観念にこだわらない種族だ(中略)
つぎの一種の原則をもういちど引用したい。
『画家は絵筆を手にしてのみ考えるべきである。』」(P163)

「読者はぜひ、確かに読まれることが少なすぎる作品だが、
(※バルザックの)『知られざる傑作』と題される
中編小説を読んでいただきたい。絵画にかんして
これ以上完璧なものは書かれたためしがないと
わたしは信じている」(P163)

「彼(※アングル)の思想はすべて描くという行為のなかにあり、
彼の反省はすべて修正のなかにあった。そしてもし、どんな画家であれ、
ひとがその画家のうちに、この種の対立と絵となった思想
(それは絵のなかで一つの現実的弁証法によって成熟してゆく)とを
見出さないとすれば、それは、文学者として絵画を論じること、
つまり絵画のうちに語られた思想しか求めないことに
徹してしまっているからである。それは見当違いである」(P163~164)

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「真実が人間の深みに投射する光そのもの以外に
真実の基準なるものは存在しない」(P164)

「現実のなかでの理想的な美の発見と、
理想的な美のなかでの、その美の基盤としての
力強い現実の発見というこの二重の発見、
それが言葉なしに考えられたアングルの思想である」(P167)

「すべての天才は精神であり、新しい世界を発見する。
いまやわれわれは、絵画に、すなわち、
われわれの言葉とは無縁で、表現不可能で、
作品自体のなかに封じ込められているために
不可視ですらある思想へと招じ入れられたのである」(P167)

「理念(コンセプト)なしでは、
人間の多種多様な意見の喧騒のなかで、
わたしはなにも理解することができない」(P168)

「色彩はそれを溶融することができるが、
線にはそれができない。線は選択せざるを得ない。
だから、みごとなデッサン(アングルにはそれが多い)においては、
線はけっしてためらっていないことにあなたは気づかれるはずだ(中略)
線には拘束する選択がある。だからわたしは、
かの芸術の誠実さという表現にその全的な意味を与えたくなる。
それは倫理的範疇の義務、一種の誓約をも意味する」(P170)

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「わたしとしては絵筆の運動自体しか
画家の観念とはみなしたくないのだ(中略)
この画家の観念とは行動となった夢想にほかならず、
創造的想像力とはなにかということを、
その反対のものである破壊的想像力を介して教えてくれる」(P172)

「本書のすばらしい複製をよく観察していただいて、
アングルの油彩肖像画の秘密を明らかにしてくれるはずの、
デッサンと色彩とのたえざる戦いの痕跡を
そこに探し求めるようにおすすめする」(P172)

「不可分なこの戦いは、つねに隠されてはいるが、
絵自体のなかでつづけられてゆく弁証法以外のなにものでもないと言いたい。
この結果、アングルの油彩肖像画は実際に年齢をかさねてゆく」(P172)

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「画家ほど秘匿されているものはない。
たえず反省を修正へと引き戻し、絵筆によって疑い、
描いては描き直すことをおのれに強制する
その怖るべき作業を洞察すべきである。
この技を離れては、自己統御の実例は多くはないのだ。
絵筆は精神であるだけではなく、とりわけ、意志であり、
自己への誓約である。画家はたやすく専制者としての顔を見せる。
議論も忠告も受け入れようとしない。
アングルの場合もそうである。そこから多くの敵が生まれた。
それがきわめてみごとな自己確信の代償である。
長い支配と信奉者たちの忠誠もこれで説明がつく」(P173~174)

「アングルというこの天才的画家は
中途半端に絵画を愛することはできず、
絵画においてしか自己を表現することはせず、
そうやって、文学、心理学、および
他の空しい野心を克服していったことに留意すべきである。
したがって、アングル以後、絵画はもはや
その高い目標を忘れることはできなくなったと言うことができる。
わたしとしては、こう言うだけで
色彩とデッサンとのあいだの論争を解明するには十分だと考える。
この対立はどの画家のうちにも存在し、
それを乗り越えるように迫ることによって
画家を形成してゆくものだからだ」(P176~177)

「あるがままに人間を見ることである。
それなくしては自己認識も意味を持たないし、
率直さもあり得ない」(P179)

「われわれは正義のためにいっさいを犠牲にすべきだろうか?
いったい、われわれはそれほど完全だろうか?
わたしはそうは思わない。
自分をあるがままにとらえることが重要なのだ」(P180)

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「わたしはつねづね、バルザックは小説家以上の存在であり、
むしろ一種の見者であると考えてきた。
彼もまた書きに書きまくった。
アングルが描きに描きまくったのとおなじように。
そしてふたりとも、語り得ないことがらを表現した。
やるのならとことんやらねばならない」(P181)

「アングルのすべての絵は構図の手本である。
各部分は全体によって統治されている。
アングルが統治の才に恵まれていたことはすでに指摘した。
だから、彼は戦いと勝利とを愛していた。
彼の『パンセ』のなかには、
自分より先に死んだ競争者にたいする
遠慮なしの快哉の叫びが見られる」(P182)

「わたしの考え方は、
諸芸術のなかに散文を再導入することにある」(P184)

「絵画は諸作家の文体に多くの作用をおよぼしたのだ。
問題はいつでも輪郭を覆いかくすことにある。
書くことの幸福はここにある。絵を描くことの幸福もまた」(P185)

「なぜとどまることがあろう?
われわれは運動のために生まれたのだ。
われわれの生は大いなる空間に向かって開かれているのである」(P185)

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