恩師の生涯をたどる

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アランは公言したことを常に実践した。
確かに彼は古典的な意味で
真の哲学者(=知を愛する者)だったのである。
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フランスの作家アンドレ・モロワが、恩師である哲学者アランの生涯を事典風にまとめた自筆原稿である。

【意訳】
アラン(本名エミール・シャルティエ:1868~1951年)は、
数世代の読者に深い影響を与えているフランスの哲学者である。
1868年3月3日、オルヌ県モルターニュで生まれ、
アランソンやパリに出るまで地元の学校(※モルターニュ・コレージュ)で学んだ。

(※エコール・ノルマル〈高等師範学校〉で)哲学を修めたアランは、
ルーアンなど複数の街のリセ(※高等学校)で教師を務めた。
政治に関心を持ち、急進的な新聞「ラ・デペーシュ・ド・ルーアン」に
約600字の短い記事「プロポ(語録)」を連載するようになる。
その文学的価値の高さはすぐに注目を集め、
1908年に1冊の本にまとめられた(※『アランの百一の語録』)。
これらは現在、モンテーニュの『エセー』と比較される古典的な作品とみなされている。

パリにあるリセ、アンリ四世校の教授に任命されると、
アランは次世代を担う多くの哲学教師の師となった。

懸念していた第1次世界大戦が勃発すると、
アランは世論に逆らって戦争を非難したが、
志願して重砲兵隊に入隊した(※当時アランは46歳)。
アランは上級の管理職的な軍務に就くことを拒否し、
戦争中を一兵卒として過ごした。彼が従軍中に書いた著作が
『裁かれた戦争』(1921年)
『精神と情熱とに関する八十一章』(1917年)
『諸芸術の体系』(1920年)である。

やがて除隊となったアランは、アンリ四世校に復職した。そして
『思想と年齢』(1927年)
『海辺の会話』(1931年)
『イデー(哲学入門)』(1932年)
『神々』(1934年)
『わが思索のあと』(1936年)
『心の冒険』(1945年)など重要な著作を発表していく。
加齢や痛みを伴う病のため教壇に立つことができなくなると、
彼は教え子たちが訪ねて来られるパリ郊外の小さな家に引退した。

1951年、アランは「国家文学大賞」の初めての受賞者となった。
これは彼が受け入れた唯一の栄誉である。
同年6月2日、アランはパリに近いル・ヴェジネで没した。

最も現代的なフランスの批評家は、
アランを彼の友人であるポール・ヴァレリーと比較して、
偉大な作家であると評している。
アランは分かりやすく調理された体系を押しつけるのではなく、
ソクラテスのように人々の心を刺激し、
衝撃を与えることで、思考させようと努めた。
同時に彼はデカルトのように人々が疑うことと選び取ることができるように望み、
スピノザのように幸福は美徳の報酬ではなく美徳そのものであるとした。

私たちは私たち自身に
幸福になることを約束しなければならないとアランは主張する。
人類の苦しみに責任があるのは人間であって物理的な宇宙ではない。
誤りは人間にあり、取り除くことはできないが、乗り越えることはできる。
そこに、すべての真実の源があるのだと。

『神々』の中でアランは、水平的な歩みの道しるべとしてではなく、
垂直的な建築を補い合うものとして世界の宗教を示した。
彼はあらゆる宗教を真実と仮定し、
どの点において真実であったかを敬虔に探究する。
個々の哲学者に対しても同様に、彼らの主張を論破することより、
その議論を熟慮・再考することを重視していた。

アランは公言したことを常に実践した。
確かに彼は古典的な意味で真の哲学者(=知を愛する者)だったのである。