修養の必要性を説く
~~~~~~~~~~
各個人の魂が
それ自身の最高能力に達しようと努力しない限り、
すなわち、各人が至上の人間性に対する
己れ自身の理想をまず第一に作り、
然る後にそれに向かって
一歩々々近寄ろうと努めない限り、
如何にして私たちは
より高い社会状態に達することを望み得よう?
(P442~443)
~~~~~~~~~~

本書はスウェーデンの社会思想家・教育学者・婦人運動家として知られるエレン・ケイの論考8編を収めたものである。Arthur G. Chater による英訳 The Younger Generation (1914年刊)からの重訳。収録内容は次の通り。
①現代は若き人々に何を求むるか
②平和問題
③更新的修養論
④少数と多数
⑤青年婦人及び非軍国主義
⑥階級標章
⑦子どもの特権
⑧協同活動と自己修養
群衆の台頭、社会主義革命、第1次世界大戦の予感が社会を覆う中、エレン・ケイは、理想的な社会を建設するためには人々の魂の成熟が必要であると説く。人間信頼に基づく彼女の洞察は鋭くも温かい。手垢のついた思想と言えなくもないが、そのほとんどを達成できていない私たちは、100年前の考察にもう一度耳を傾けるべきだろう。
【「現代は若き人々に何を求むるか」から ※現代表記に改めた】
「新聞紙の態度を決定する上に重大な勢力を持っているのが
財政上の支配人の影響であるという点で、
新聞紙は余りに多く一種の商会となり過ぎている」(P21)
「覚醒の大きな時代は、
その時代の若い人々に向かって
要求するところもまた多いものである。
とりわけ、その時代の大なる観念を
認知することを要求するものである」(P22)
「人々が、すべて他人の原因も、
自分自身の原因として感ずるような状態にまで
相互の連帯関係の感念を発達させた時にこそ、
はじめて、私たちは国際的平和および社会的平和に
近づいたということができるのである」(P24)
「若い人々は、無数の失望を経験しても、
しかもなお失望しないように
準備していなければならない」(P36)
【「平和問題」から】
「この世を改造するすべての運動は、
夢想家たちによって始められる。
彼ら夢想家たちの予言は、それが人々の心に、
解決されなければならない一個の力強い問題として
深く印銘されるまでは、罪悪として取り扱われ、
または狂愚として非難される」(P39)
「今日において、各国民が、
競ってその軍備を盛んにするのは、
決して彼らの戦いを好む性質からそうするのではない。
否、それは彼らが今や平和を望んでいて、
そしてその平和を望むためには、
軍備は疑いもなく一種の高価な保険ではあるが、
しかも最も優良な保険の形式であると思っているからである。
従ってもしその保険料が、一層安価な、
そしてまた一層確かな料金で済まされるようになるならば、
大多数の人は喜んで、この後者の方を選ぶであろうと思う」(P47)
「一切の地上生活は、
ただ永久の審判における一時の休止であり、
またその準備に他ならないという人生観から見ても、
生命がその十分な発達を遂げないうちに
それを絶ってもよいということは、
ただただ頑冥不霊の徒のみのいうことである」(P64)
「若き生命の保護と増進とは
国家がまさに採るべき第一の義務である」(P69)
「我々は、我々の国家から
無限の恩恵を受けているという信念から
出立しなければならないのである(中略)
国家は我々の言語を保護し、我々の国土を保護し、
我々の憲法の自由を保護し、乃至我々が、
我々自らの特殊の性格に応ずる連続的文化の発達に
必要である他のすべての条件を保護する上の、
最も重要なものであるという信念から
出立しなければならないのである」(P80)
「平和の先駆とならなければならない精神的改宗において、
我々が熱心な活動を望みうるのは、何よりも母たちからである。
若い人々の生命をその最愛の宝としている母たちは、
全力を挙げて戦争に反対しなければならない(中略)
母たちは、その子どもらに、
政治的立場および倫理的立場からは
当然非難しなければならないような目的のために、
彼らの子どもらの生命を要求するような政策を
憎むように教えなければならない。
母たちはまた、その子どもたちに、
彼らがその国に寄与するところのものは生命ではなく、
生命の事業であるべきであるということを
夢想するように教えなければならない。
母たちはまたその子どもたちの野心とその自己犠牲とを、
戦争にではなく、平和に連関させなければならない」(P86~87)
「母たちはその感化力において、
その子どもを教育する上において、実に世界の良心を覚醒し、
乃至は世界の理性を形成する仕事を持っているのである」(P87)
「婦人たちは、国と国とを一つに結びつける
様々の糸を紡ぐことができる。
数えられないほどたくさんの人格的な方法で、
彼らは国民と国民との間に深い同情を喚起し、
相互関係を助長することができる」(P94)
【「更新的修養論」から】
「生産的である快楽のみが、
最も深甚な意味における高尚なる快楽である」(P101)
「高尚な快楽は、
それが中庸という範囲を超越しない限りにおいて、
心身の様々の力を増進するものであるが、
高尚でない快楽は、これに対して、
たとえそれに極端に耽溺するようなことがないとしても、
それを享楽した後には、必ず倦怠、憎悪、疲労、
または空虚を感ずるものである」(P105)
「生の不断の増進――すなわち、
心に成長をもたらし、身体に健康をもたらすことは(中略)
思想、感情、意志を一層充実させるような快楽、
更に新たな精神で人生のもろもろの仕事に奮闘せしめるような快楽、
こういう快楽からのみ得られるものである。
もし、快楽にして、上に述べたような効果の
一つをも与えないものであるならば、それは悪い快楽である。
少なくも空虚な快楽である」(P105~106)
「その人の修養の如何なるものであるかを見るには、
その人の快楽の選択を見るに如くはない」(P108)
「たいていの人――社会主義者も
または現社会の柱である人々のいずれをも含む――は
愚かでなくも、霊魂の根本的な必需品を看過している(中略)
彼らは笑ってさえいられれば、
または騒々しく騒いでさえいられれば――
または酩酊したり、夢中になったりしてさえいられれば――
それで彼らは彼ら自身を『享楽』しているというのである。
『時を過ごしている』というのである。
そして彼らは彼らの霊魂に、それがどういう影響を与える
ということについての責任は毫もこれを感じないのである」
(P110~111)
「ロシアと戦争中、
粗末な米の飯をありがたがっていた日本の兵士は、
何かの機会で、わずかばかりの草花を見ると、
ヨーロッパの遠足家のそれにも増して、
一種の更新的修養を感得したということである」(P116)
「フィルムの大多数は空虚な感覚挑発的なものであり、
野卑な戯曲であり、無意義な日常生活の事件であって、
それらはすべて、修養上の価値からいって、
貧しいものであることにおいては、いずれも同じである」(P121)
「活動写真が、いかにも有力な
教育上の仲買人ででもあるかのように思われて、
そして無価値な素材が日一日と、
一般人民の頭の中へ流れ込むということは
考えても実に厭わしいことである」(P122)
「民衆が必要とするところのものは、
偉大なる目的を喚起し、意志を強固にし、
生活に対する見解をひろめ、人々の情緒を純化し、
また深化するような戯曲的芸術である」(P144)
「新しい時代は新しい芸術を要する。
ただただ時代と共に
それ自らを新しくするような芸術のみが
民衆にとって価値ある芸術である」(P145)
「(※ロマン・ロランの民衆劇論を引いて)
民衆を感動させなければならない芸術は
生活の内的音楽を描いた芸術である(中略)
最重要事は、それらの題材の一切の観念、理想、
一切の錯誤、偏見などを、常に現に生活しつつある
我々に関するものとして表現するということである。
芸術の目的は百倍に千倍に人生を増加することである。
一切の芸術は我々の人生をして、
より偉大に、より強固に、より道徳的に、
より美しいものとするものでなければならない。
芸術をして、一切の圧制、一切の卑俗、
一切の悪意を憎悪する一念を民衆に喚起せしめよ。
そしてそれと同時に各個人をして、
更によりよき理解において融和せしめ、
各個人相互をして、さらにより深厚な同胞感を
抱かしめるものたらしめよ。こうローランは言っている」
(P148~150)
「私が上にロマン・ローランの言葉を引いたのは、
私がその一語一句にも賛成するものであるからであると共に、
また、以上ローランの言葉によって、世の思慮深い若い人たちが、
その為さなければならない仕事の何であるかを
覚醒することを希望するがためである。換言すれば
彼ら若い人たちが、高尚な快楽を要求する自己修養
並びに若い人たちの使命として最も重要な部分を占めている
更新的修養ということを自覚することを希望するからである」
(P152~153)
「労働が専門的になった現代においては、
その結果として自ら生ずる一方に偏する
ということを妨げるような
様々の娯楽に余暇を費やすということは、
ますます真面目な重大事となっている。
様々の方面を持っている仕事は
それ自らにおいて修養を含んでいる。
一方に偏した仕事をしなければならないように
なっている人は、様々の快楽の何らかの方法によって、
その修養上の欠陥を満たしてゆかなければならないのである。
であるから職工等が、ただただ馬鹿々々しいくすくす笑いや、
悪意のある苦笑いや、下品な道化や、
卑俗な官能を刺激するような娯楽場へ群り来るのを見るのは、
二重の意味で悲しいことである」(P163)
「群衆に従うことは、――あらゆる点で――
その人がその修養において
没人格的であることの証拠であるけれども、
その人が、いかに没人格的であり、
いかにその創見において貧弱であり、
いかにその人が一個の群集動物であるかということは、
その人の娯楽の選択において最も明瞭に
うかがわれるものである」(P163~164)
「最も単純な事柄の中に快楽を見出すように
我れ自らを修養するこそ、最も優れた修養というべきである。
霊魂が空虚であればあるほど、それは生活を鈍く観るものであり、
従って、また刺激的な快楽に一時的の刺激を求めるものである」(P168)
【「少数と多数」から】
「人類は、人類そのものの中に
幸福の理想および正義の理想を含んでいる」(P208)
「真の自由な心を持っている人は、
かのフランス革命の時においてもそうであったように、
時代の浪が、人々の亡骸ともろもろの難破船とを
岸に洗い上げるのを見ても少しも恐れはしない。
彼は両手を組み合わせて、海を呪いながら
ただ茫然と岸辺へ立っている人間ではない。
蓋し、その海は生命を与える海であって、
この海がなければ、人は陸にあって生活し、
呼吸することができないことを
彼はよく知るからである」(P217~218)
「純粋なる生地のままの民主主義は、
しばしば偉大なる人格を嫉妬し、あるいは邪推し、
またそれを侮辱することを歓び、
同時にまた背恩的であり、浮気であり、傲慢であり、
そして時には不正直であり、不正であるという場合がある。
この故に、よくものを考えている人で、
普通選挙を究極の目的と信じているものは無い」
(P224~225)
「単に良き生活状態からばかりではなく、
むしろまず第一には、高尚な心霊のうちからこそ
大なる幸福の花が咲き出てくるであろう」(P283)
「多数者の低い標準に立脚して
『好く』『好かぬ』をきめようとする民主主義の傾向に対して、
反対するのも正しいことである」(P292)
「アメリカの民主主義は、
相変わらず経済的考案を至上に置くところの民主主義である(中略)
アメリカは、民主主義と資本主義とが協力して
虐政を作り出すという事実の偉大なる実証である」(P301)
「生計の顧慮のために、
両親はその子女と共に生活するの時間を持たず、
またその子女に真の教育を施さんとするも、
これを研究するの時間を持たない。
学校は人格を発達せしめるの時間を持たず、
ただ試験に備えるだけである。
これを換言すれば、ただ食物をひっかけようとする
釣り糸を用意するに過ぎぬのである。
まことに、人々が生命を維持せんとして疲れ果てている間に、
かようにして生命が濫費されているのである」
(P311~312)
「すべてのものが、
より善きものに向かって発達しつつあるという信念が、
あらゆる人々の生の享楽を向上せしめるであろう。
蓋し、今日においては、まったくそれに反して、
あらゆる生活上の価値に対する疑いが、
困憊の最も深い原因の一つとなっている」
(P327~328)
「歴史上のある時代において、
人類は、人類自身まさに世の終りに
面接しているのであると信じた。
しかしそれにもかかわらず実際においては人類は
その場合まさに世の始めに立っていたのである」
(P328~329)
【「青年婦人及び非軍国主義」から】
「私たちが精神上の改造を期待し得るのは
新時代の婦人からである。
ことに若い母親たちからである」(P353)
「息子等を『国家の防御者』として諭す時には
私人としては賤しむべき事として教えた行為をば犯すように、
眼を輝かし煽動的な言葉を用いて勧告するのである。
身にあらん限りの力をもって嫌悪や熱狂の情火を
あおり立てるこうした母親たちは、
到底子どもらの心を平和のために準備することはdけいない」
(P354~355)
「新しい母親たちは
彼らの息子たちの競争心や、野心や想像力や意志を
発見や発明に、または病魔との戦いや事業の完成に、
乃至は生の破壊でなく生の救助に差し向けなければならない。
ことにまず第一に、有意義な社会組織の完成に
差し向けなければならない」(P356~357)
【「階級標章」から】
「初級の学校から始めらるべきである真の知的教育が、
宗教的感情そのものにとってさえ致命的である
宗教的教訓のためにしばしば犠牲にされる」(P388)
【「子どもの特権」から】
「子ども時代の数年が、
健やかな強い幸福な良い人類の養育に
必要欠くべからざる境遇のもとに過ごされ得るように、
年中一日も欠かさずすべての日が、
まず第一に子どものためでなければならない」(P397)
【「協同活動と自己修養」から】
「演説病に早くから罹っている若い男や女は、
有用な個人的活動の能力を容易に失う者である」(P418)
「団体制度の持っている最も著しい危険は、
団体機関がその中に働いている人々の個性の重要な部分を
不具にすることを防ぐような何らの予防策をも講じないで、
ただ盲目的に働いているということである。
そして個人の良心は党派や協会や委員会やによって行われる
催眠術のために眠らされるのであるから、
警戒しなければ危険はますます増大する」(P418~419)
「朦朧たる幻影のために、
個人はますます自己の意見を犠牲にし、
自己の意志を捨て、自己の良心を堕落させるのである。
しかもこれらの人々はすべて、毫も自責の念を持っていない!
団結によって生ずる雰囲気は、協同活動の危険について述べた
キルケゴールの諺の一つを借りて言えば、
それに属する人々をして『責任感や良心の呵責を欠如』
させるものである」(P420)
「将来の価値の高低は
現に人々が将来のために軽率にも犠牲にしているところの
『現在の瞬間』の連続した全体の価値の如何によって
定められるのである(中略)
毎時間々々々、自分の本性を抑圧されるままにしておきながら
将来においてそれの尋常の発達を期し得るであろうか?
毎日々々、自分の良心を黙させておきながら、
将来においてそれを雄弁ならしめることができるであろうか?
毎年々々、自分の魂を飢えさせておきながら、
将来においてそれを十分発達させることができるであろうか?」
(P426~427)
「『社会的活動』や様々の団体の生活に
早計に身を投ずる青年たちは、彼ら自身の自己修養にとって
最も重要な期間を失う者である。
こうした青年たちは、重大な問題を自分自身に問うよりも、
先に答えを与えようと静かに傾聴しないうちに
質問を発することを学ぶ」(P428)
「もし若い者が十年の後になって
大なる内的空虚を感ずる自分となることを欲しないならば(中略)
より多く孤独的になり、より少なく団結的になること、
それが若い者の『十歳代』において必要なことである」(P429)
「今や青年の間には重大問題を取り扱うに当たっての
いわゆる『真剣さ』が大いに存するが
実際においてそれは戯れに過ぎないのである。
なぜかというに、本当の真剣さは、
ちょっと覗いたばかりの問題や
十分に熟知していない人物について意見を述べたり
判断を下したりすることを控えるものだからである。
本当の真面目さは、出来合いの常套的見解を
求めようとする要求に反抗する。
本当の真面目さは、与えられた如何なる場合においても、
遺恨や熱狂を感ずる権利があるかないかを吟味する。
自己修養がすすみ、自己の思想にある程度の明確さと
ある原動力に自己を集中する感情とが加わってきたときに、
はじめて社会生活に参加すべき時期が到来するのである。
現今の社会生活は、年長者であると年少者であるとを問わず、
それに参加する人々の自己修養の欠乏のために、
甚だしく混乱され低下されている」(P431~432)
「社会生活は教養の最高価値である
天才に対して不都合である。
天才は概して、団体において適応し
かつ尊重されるような資質を欠いている(中略)
もちろん、社会は天才に関する話説に耳を傾けるが、
しかしそれは天才の死後のことであって、生きている間は、
天才はやはり集合的精神には理解されない」(P436)
「各個人の魂が
それ自身の最高能力に達しようと努力しない限り、
すなわち、各人が至上の人間性(ヒューマニティー)に対する
己れ自身の理想をまず第一に作り、然る後に
それに向かって一歩々々近寄ろうと努めない限り、
如何にして私たちは
より高い社会状態に達することを望み得よう?」(P442~443)
~~~~~~~~~~
各個人の魂が
それ自身の最高能力に達しようと努力しない限り、
すなわち、各人が至上の人間性に対する
己れ自身の理想をまず第一に作り、
然る後にそれに向かって
一歩々々近寄ろうと努めない限り、
如何にして私たちは
より高い社会状態に達することを望み得よう?
(P442~443)
~~~~~~~~~~

本書はスウェーデンの社会思想家・教育学者・婦人運動家として知られるエレン・ケイの論考8編を収めたものである。Arthur G. Chater による英訳 The Younger Generation (1914年刊)からの重訳。収録内容は次の通り。
①現代は若き人々に何を求むるか
②平和問題
③更新的修養論
④少数と多数
⑤青年婦人及び非軍国主義
⑥階級標章
⑦子どもの特権
⑧協同活動と自己修養
群衆の台頭、社会主義革命、第1次世界大戦の予感が社会を覆う中、エレン・ケイは、理想的な社会を建設するためには人々の魂の成熟が必要であると説く。人間信頼に基づく彼女の洞察は鋭くも温かい。手垢のついた思想と言えなくもないが、そのほとんどを達成できていない私たちは、100年前の考察にもう一度耳を傾けるべきだろう。
【「現代は若き人々に何を求むるか」から ※現代表記に改めた】
「新聞紙の態度を決定する上に重大な勢力を持っているのが
財政上の支配人の影響であるという点で、
新聞紙は余りに多く一種の商会となり過ぎている」(P21)
「覚醒の大きな時代は、
その時代の若い人々に向かって
要求するところもまた多いものである。
とりわけ、その時代の大なる観念を
認知することを要求するものである」(P22)
「人々が、すべて他人の原因も、
自分自身の原因として感ずるような状態にまで
相互の連帯関係の感念を発達させた時にこそ、
はじめて、私たちは国際的平和および社会的平和に
近づいたということができるのである」(P24)
「若い人々は、無数の失望を経験しても、
しかもなお失望しないように
準備していなければならない」(P36)
【「平和問題」から】
「この世を改造するすべての運動は、
夢想家たちによって始められる。
彼ら夢想家たちの予言は、それが人々の心に、
解決されなければならない一個の力強い問題として
深く印銘されるまでは、罪悪として取り扱われ、
または狂愚として非難される」(P39)
「今日において、各国民が、
競ってその軍備を盛んにするのは、
決して彼らの戦いを好む性質からそうするのではない。
否、それは彼らが今や平和を望んでいて、
そしてその平和を望むためには、
軍備は疑いもなく一種の高価な保険ではあるが、
しかも最も優良な保険の形式であると思っているからである。
従ってもしその保険料が、一層安価な、
そしてまた一層確かな料金で済まされるようになるならば、
大多数の人は喜んで、この後者の方を選ぶであろうと思う」(P47)
「一切の地上生活は、
ただ永久の審判における一時の休止であり、
またその準備に他ならないという人生観から見ても、
生命がその十分な発達を遂げないうちに
それを絶ってもよいということは、
ただただ頑冥不霊の徒のみのいうことである」(P64)
「若き生命の保護と増進とは
国家がまさに採るべき第一の義務である」(P69)
「我々は、我々の国家から
無限の恩恵を受けているという信念から
出立しなければならないのである(中略)
国家は我々の言語を保護し、我々の国土を保護し、
我々の憲法の自由を保護し、乃至我々が、
我々自らの特殊の性格に応ずる連続的文化の発達に
必要である他のすべての条件を保護する上の、
最も重要なものであるという信念から
出立しなければならないのである」(P80)
「平和の先駆とならなければならない精神的改宗において、
我々が熱心な活動を望みうるのは、何よりも母たちからである。
若い人々の生命をその最愛の宝としている母たちは、
全力を挙げて戦争に反対しなければならない(中略)
母たちは、その子どもらに、
政治的立場および倫理的立場からは
当然非難しなければならないような目的のために、
彼らの子どもらの生命を要求するような政策を
憎むように教えなければならない。
母たちはまた、その子どもたちに、
彼らがその国に寄与するところのものは生命ではなく、
生命の事業であるべきであるということを
夢想するように教えなければならない。
母たちはまたその子どもたちの野心とその自己犠牲とを、
戦争にではなく、平和に連関させなければならない」(P86~87)
「母たちはその感化力において、
その子どもを教育する上において、実に世界の良心を覚醒し、
乃至は世界の理性を形成する仕事を持っているのである」(P87)
「婦人たちは、国と国とを一つに結びつける
様々の糸を紡ぐことができる。
数えられないほどたくさんの人格的な方法で、
彼らは国民と国民との間に深い同情を喚起し、
相互関係を助長することができる」(P94)
【「更新的修養論」から】
「生産的である快楽のみが、
最も深甚な意味における高尚なる快楽である」(P101)
「高尚な快楽は、
それが中庸という範囲を超越しない限りにおいて、
心身の様々の力を増進するものであるが、
高尚でない快楽は、これに対して、
たとえそれに極端に耽溺するようなことがないとしても、
それを享楽した後には、必ず倦怠、憎悪、疲労、
または空虚を感ずるものである」(P105)
「生の不断の増進――すなわち、
心に成長をもたらし、身体に健康をもたらすことは(中略)
思想、感情、意志を一層充実させるような快楽、
更に新たな精神で人生のもろもろの仕事に奮闘せしめるような快楽、
こういう快楽からのみ得られるものである。
もし、快楽にして、上に述べたような効果の
一つをも与えないものであるならば、それは悪い快楽である。
少なくも空虚な快楽である」(P105~106)
「その人の修養の如何なるものであるかを見るには、
その人の快楽の選択を見るに如くはない」(P108)
「たいていの人――社会主義者も
または現社会の柱である人々のいずれをも含む――は
愚かでなくも、霊魂の根本的な必需品を看過している(中略)
彼らは笑ってさえいられれば、
または騒々しく騒いでさえいられれば――
または酩酊したり、夢中になったりしてさえいられれば――
それで彼らは彼ら自身を『享楽』しているというのである。
『時を過ごしている』というのである。
そして彼らは彼らの霊魂に、それがどういう影響を与える
ということについての責任は毫もこれを感じないのである」
(P110~111)
「ロシアと戦争中、
粗末な米の飯をありがたがっていた日本の兵士は、
何かの機会で、わずかばかりの草花を見ると、
ヨーロッパの遠足家のそれにも増して、
一種の更新的修養を感得したということである」(P116)
「フィルムの大多数は空虚な感覚挑発的なものであり、
野卑な戯曲であり、無意義な日常生活の事件であって、
それらはすべて、修養上の価値からいって、
貧しいものであることにおいては、いずれも同じである」(P121)
「活動写真が、いかにも有力な
教育上の仲買人ででもあるかのように思われて、
そして無価値な素材が日一日と、
一般人民の頭の中へ流れ込むということは
考えても実に厭わしいことである」(P122)
「民衆が必要とするところのものは、
偉大なる目的を喚起し、意志を強固にし、
生活に対する見解をひろめ、人々の情緒を純化し、
また深化するような戯曲的芸術である」(P144)
「新しい時代は新しい芸術を要する。
ただただ時代と共に
それ自らを新しくするような芸術のみが
民衆にとって価値ある芸術である」(P145)
「(※ロマン・ロランの民衆劇論を引いて)
民衆を感動させなければならない芸術は
生活の内的音楽を描いた芸術である(中略)
最重要事は、それらの題材の一切の観念、理想、
一切の錯誤、偏見などを、常に現に生活しつつある
我々に関するものとして表現するということである。
芸術の目的は百倍に千倍に人生を増加することである。
一切の芸術は我々の人生をして、
より偉大に、より強固に、より道徳的に、
より美しいものとするものでなければならない。
芸術をして、一切の圧制、一切の卑俗、
一切の悪意を憎悪する一念を民衆に喚起せしめよ。
そしてそれと同時に各個人をして、
更によりよき理解において融和せしめ、
各個人相互をして、さらにより深厚な同胞感を
抱かしめるものたらしめよ。こうローランは言っている」
(P148~150)
「私が上にロマン・ローランの言葉を引いたのは、
私がその一語一句にも賛成するものであるからであると共に、
また、以上ローランの言葉によって、世の思慮深い若い人たちが、
その為さなければならない仕事の何であるかを
覚醒することを希望するがためである。換言すれば
彼ら若い人たちが、高尚な快楽を要求する自己修養
並びに若い人たちの使命として最も重要な部分を占めている
更新的修養ということを自覚することを希望するからである」
(P152~153)
「労働が専門的になった現代においては、
その結果として自ら生ずる一方に偏する
ということを妨げるような
様々の娯楽に余暇を費やすということは、
ますます真面目な重大事となっている。
様々の方面を持っている仕事は
それ自らにおいて修養を含んでいる。
一方に偏した仕事をしなければならないように
なっている人は、様々の快楽の何らかの方法によって、
その修養上の欠陥を満たしてゆかなければならないのである。
であるから職工等が、ただただ馬鹿々々しいくすくす笑いや、
悪意のある苦笑いや、下品な道化や、
卑俗な官能を刺激するような娯楽場へ群り来るのを見るのは、
二重の意味で悲しいことである」(P163)
「群衆に従うことは、――あらゆる点で――
その人がその修養において
没人格的であることの証拠であるけれども、
その人が、いかに没人格的であり、
いかにその創見において貧弱であり、
いかにその人が一個の群集動物であるかということは、
その人の娯楽の選択において最も明瞭に
うかがわれるものである」(P163~164)
「最も単純な事柄の中に快楽を見出すように
我れ自らを修養するこそ、最も優れた修養というべきである。
霊魂が空虚であればあるほど、それは生活を鈍く観るものであり、
従って、また刺激的な快楽に一時的の刺激を求めるものである」(P168)
【「少数と多数」から】
「人類は、人類そのものの中に
幸福の理想および正義の理想を含んでいる」(P208)
「真の自由な心を持っている人は、
かのフランス革命の時においてもそうであったように、
時代の浪が、人々の亡骸ともろもろの難破船とを
岸に洗い上げるのを見ても少しも恐れはしない。
彼は両手を組み合わせて、海を呪いながら
ただ茫然と岸辺へ立っている人間ではない。
蓋し、その海は生命を与える海であって、
この海がなければ、人は陸にあって生活し、
呼吸することができないことを
彼はよく知るからである」(P217~218)
「純粋なる生地のままの民主主義は、
しばしば偉大なる人格を嫉妬し、あるいは邪推し、
またそれを侮辱することを歓び、
同時にまた背恩的であり、浮気であり、傲慢であり、
そして時には不正直であり、不正であるという場合がある。
この故に、よくものを考えている人で、
普通選挙を究極の目的と信じているものは無い」
(P224~225)
「単に良き生活状態からばかりではなく、
むしろまず第一には、高尚な心霊のうちからこそ
大なる幸福の花が咲き出てくるであろう」(P283)
「多数者の低い標準に立脚して
『好く』『好かぬ』をきめようとする民主主義の傾向に対して、
反対するのも正しいことである」(P292)
「アメリカの民主主義は、
相変わらず経済的考案を至上に置くところの民主主義である(中略)
アメリカは、民主主義と資本主義とが協力して
虐政を作り出すという事実の偉大なる実証である」(P301)
「生計の顧慮のために、
両親はその子女と共に生活するの時間を持たず、
またその子女に真の教育を施さんとするも、
これを研究するの時間を持たない。
学校は人格を発達せしめるの時間を持たず、
ただ試験に備えるだけである。
これを換言すれば、ただ食物をひっかけようとする
釣り糸を用意するに過ぎぬのである。
まことに、人々が生命を維持せんとして疲れ果てている間に、
かようにして生命が濫費されているのである」
(P311~312)
「すべてのものが、
より善きものに向かって発達しつつあるという信念が、
あらゆる人々の生の享楽を向上せしめるであろう。
蓋し、今日においては、まったくそれに反して、
あらゆる生活上の価値に対する疑いが、
困憊の最も深い原因の一つとなっている」
(P327~328)
「歴史上のある時代において、
人類は、人類自身まさに世の終りに
面接しているのであると信じた。
しかしそれにもかかわらず実際においては人類は
その場合まさに世の始めに立っていたのである」
(P328~329)
【「青年婦人及び非軍国主義」から】
「私たちが精神上の改造を期待し得るのは
新時代の婦人からである。
ことに若い母親たちからである」(P353)
「息子等を『国家の防御者』として諭す時には
私人としては賤しむべき事として教えた行為をば犯すように、
眼を輝かし煽動的な言葉を用いて勧告するのである。
身にあらん限りの力をもって嫌悪や熱狂の情火を
あおり立てるこうした母親たちは、
到底子どもらの心を平和のために準備することはdけいない」
(P354~355)
「新しい母親たちは
彼らの息子たちの競争心や、野心や想像力や意志を
発見や発明に、または病魔との戦いや事業の完成に、
乃至は生の破壊でなく生の救助に差し向けなければならない。
ことにまず第一に、有意義な社会組織の完成に
差し向けなければならない」(P356~357)
【「階級標章」から】
「初級の学校から始めらるべきである真の知的教育が、
宗教的感情そのものにとってさえ致命的である
宗教的教訓のためにしばしば犠牲にされる」(P388)
【「子どもの特権」から】
「子ども時代の数年が、
健やかな強い幸福な良い人類の養育に
必要欠くべからざる境遇のもとに過ごされ得るように、
年中一日も欠かさずすべての日が、
まず第一に子どものためでなければならない」(P397)
【「協同活動と自己修養」から】
「演説病に早くから罹っている若い男や女は、
有用な個人的活動の能力を容易に失う者である」(P418)
「団体制度の持っている最も著しい危険は、
団体機関がその中に働いている人々の個性の重要な部分を
不具にすることを防ぐような何らの予防策をも講じないで、
ただ盲目的に働いているということである。
そして個人の良心は党派や協会や委員会やによって行われる
催眠術のために眠らされるのであるから、
警戒しなければ危険はますます増大する」(P418~419)
「朦朧たる幻影のために、
個人はますます自己の意見を犠牲にし、
自己の意志を捨て、自己の良心を堕落させるのである。
しかもこれらの人々はすべて、毫も自責の念を持っていない!
団結によって生ずる雰囲気は、協同活動の危険について述べた
キルケゴールの諺の一つを借りて言えば、
それに属する人々をして『責任感や良心の呵責を欠如』
させるものである」(P420)
「将来の価値の高低は
現に人々が将来のために軽率にも犠牲にしているところの
『現在の瞬間』の連続した全体の価値の如何によって
定められるのである(中略)
毎時間々々々、自分の本性を抑圧されるままにしておきながら
将来においてそれの尋常の発達を期し得るであろうか?
毎日々々、自分の良心を黙させておきながら、
将来においてそれを雄弁ならしめることができるであろうか?
毎年々々、自分の魂を飢えさせておきながら、
将来においてそれを十分発達させることができるであろうか?」
(P426~427)
「『社会的活動』や様々の団体の生活に
早計に身を投ずる青年たちは、彼ら自身の自己修養にとって
最も重要な期間を失う者である。
こうした青年たちは、重大な問題を自分自身に問うよりも、
先に答えを与えようと静かに傾聴しないうちに
質問を発することを学ぶ」(P428)
「もし若い者が十年の後になって
大なる内的空虚を感ずる自分となることを欲しないならば(中略)
より多く孤独的になり、より少なく団結的になること、
それが若い者の『十歳代』において必要なことである」(P429)
「今や青年の間には重大問題を取り扱うに当たっての
いわゆる『真剣さ』が大いに存するが
実際においてそれは戯れに過ぎないのである。
なぜかというに、本当の真剣さは、
ちょっと覗いたばかりの問題や
十分に熟知していない人物について意見を述べたり
判断を下したりすることを控えるものだからである。
本当の真面目さは、出来合いの常套的見解を
求めようとする要求に反抗する。
本当の真面目さは、与えられた如何なる場合においても、
遺恨や熱狂を感ずる権利があるかないかを吟味する。
自己修養がすすみ、自己の思想にある程度の明確さと
ある原動力に自己を集中する感情とが加わってきたときに、
はじめて社会生活に参加すべき時期が到来するのである。
現今の社会生活は、年長者であると年少者であるとを問わず、
それに参加する人々の自己修養の欠乏のために、
甚だしく混乱され低下されている」(P431~432)
「社会生活は教養の最高価値である
天才に対して不都合である。
天才は概して、団体において適応し
かつ尊重されるような資質を欠いている(中略)
もちろん、社会は天才に関する話説に耳を傾けるが、
しかしそれは天才の死後のことであって、生きている間は、
天才はやはり集合的精神には理解されない」(P436)
「各個人の魂が
それ自身の最高能力に達しようと努力しない限り、
すなわち、各人が至上の人間性(ヒューマニティー)に対する
己れ自身の理想をまず第一に作り、然る後に
それに向かって一歩々々近寄ろうと努めない限り、
如何にして私たちは
より高い社会状態に達することを望み得よう?」(P442~443)
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