直観と思索のアンソロジー

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個別のなかへの〈全一〉の現れを知る瞬間、
私たちはよろこびによって創造する。
そこには無数に変容するよろこびと感謝との
芸術の誕生がある(P13)
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本書はフランス文学者で詩人の清水茂氏による詩論集である。2004年、書肆青樹社刊。

Ⅰ 詩、生きること
Ⅱ 書くという行為
Ⅲ 同意のよろこび

から成る。詩にまつわる直観と思索のアンソロジーとなっており、著者の世界観・人生観を垣間見せてくれる。「あとがき」で「自分にとって、〈詩〉とはほとんど〈生〉の核であるものと同義語のようなものだ」(P87)と述べているように、著者にとって詩とは生そのものであるのだろう。

【「詩、生きること」から】
「偉(すぐ)れた精神とは
この世界に大きな魅力を感じている精神に他ならない。
なぜなら、そんな精神だけに
この世界を充分に讃めることが可能だから。
そんな精神だけが
世界にたいして充分な敬意を払うことができるのだ。
彼らが讃め、尊敬することで、
世界はいっそうの美しさと威厳を帯びる。
そして、私たちにまで、
その美しさと威厳とを示してくれるのだ。
さまざまな行為により、芸術創造により、
詩と思想により、世界の魅力であるものを顕してくれた人びと、
彼らこそはほんとうに偉れた存在たちだ」(P10)

「自我というものは光を不充分にしか透さず、
しかも屈折させる或る種の遮蔽物だ。
必要なことはかぎりなく自己無化をはかることだ。
とりわけ、創造行為に携わる場合には。
光に射し貫かれること(中略)
このことなしに作られる作品には
神秘が宿るというような言い方はできないだろう」(P11)

「個別のなかへの〈全一〉の現れを知る瞬間、
私たちはよろこびによって創造する。
そこには無数に変容するよろこびと感謝との
芸術の誕生がある」(P13)

「誰かを赦せないということは、その部分で、
世界を赦せないということだ。一人と和解することは、
その一人を通じて世界と和解することでもある」(P21)

「祈るという行為は
おそらく閉塞状態の自分の心に穴を開けることだ。
そして、この点では言葉を発することにも同様の特徴がある。
だから、見えない対象にむかって言葉を放つ行為は
一種の祈りのようなものだ」(P23)

「詩人であるとは、
何にも先行して、存在そのものが詩的であることであり、
それは絶えず宇宙にむかって問いを発しつづけることだ」(P24)

「哲学は自分一身にかかわるものだが、
芸術やポエジーは自己と他者との関係をつくるものだ」(P25)

「可能なかぎり〈私〉は無化されているのが好ましい。
どういうかたちでか、そこに世界そのものの痕跡が残るために、
〈私〉は控え目であるがいい!」(P30)

【「書くという行為」から】
「創造行為の中心には、あるいは基底には、
つねに体験的なものがなければならない。
自己と世界との、自己と神との、
あるいは根元的な絶対であるものとの、
その都度一回限りのものである
かかわりの証がなければならない」(P39)

「世界の全体と調和しながら、
刻々を生きることのよろこびと結びつく在り様で、
なお、創造的に仕事をしてゆくこと」(P40)

「自らの衷(うち)に無限に超越的な部分をもち、
この超越的な部分によって、人は世界や他者と結ばれている」(P40)

「ほんとうは私たちはつねに
絶体絶命の状況のなかに置かれているのだ。
だが、そのことを自覚的に捉えようとしないだけだ。
しかし、この状況についての自覚よりももっと重要なのは、
必死の想いをこめて努力するということのほうだ」(P42)

「絶海の孤島に追放されることになったら、
一冊の書物のどれかを選ぶよりは、許されるならば、
白紙のノートと筆記用具を携えてゆきたい(中略)
自分と世界との関係をたえず確認し、
その関係を自分の力の及ぶかぎりで美しいものとして
創り上げてゆきたいためだ」(P45)

「私にとって詩とは何か。
おそらく、言葉によって言葉を超えることだ。
ほんの僅かにであれ、言葉の向こう側にあるものを摑(つか)み、
仄示することだ。それからまた、
現存と不在とを一つに結び合せることだ」(P47)

「瞬間とかかわらない永遠、
個別とかかわらない無限は考え難い」(P51)

「自分自身が立ち去るまえに讃える視線をもつこと。
幸福をも不幸をも、よろこびをも、苦痛をも、
いずれにせよこれほど多くのことを
私たちにもたらしてくれたこの世界にたいして、
決定的な肯定の身振りを示すこと」(P57)

【「同意のよろこび」から】
「TVの伝達する情報によって、
自分のなまの生活経験から得るべきもの、
得られるものをも置き換えてしまうとしたら、
それは大きな過誤だ。草のそよぎや風の匂いさえも
TVの映像から受け取るものだけで充分だと考えるとしたら?
現実の経験にもとづいて
それぞれの形成する世界像はまったく欠落し、
豊かな想像力の展開というものは皆無になるだろう」(P61)

「幼い子どもが手で粘土を捏ね、木登りをし、
繁みのなかに異様な姿の生き物を発見し、
夜の闇のなかで大きなひろがりの不思議さと恐怖を感じることによって、
徐々に世界というものについて獲得してゆく知識と実感、
それらをTVや他のメディアが幼いものらから匿(かく)してしまい、
それらのかわりに均一で、仰々しくて、見苦しい虚像を彼らに与え、
本来その年齢で充分育つはずの想像力の内容を
なんとも貧弱な、いかがわしいもので埋め尽くしてしまう。
こうして幼児の段階から〈詩〉は
すべての可能性の萌芽を踏み潰されてしまうのだ。
彼らは成長したのちにも、なまの世界そのものから養われる
想像力の展開を生きることができない。
彼らの想像力(そう彼らが信じ込んでいるもの)が生み出すのは、
幼いころに夢の貯蔵庫に間違って貯えてしまった怪しげな、
貧弱な幻のヴァリエーションにすぎない」(P62)

「20世紀の体験の中心とは何か。
疑いの余地なく個人の無力化ということだ。
われわれの周囲で、一切は動き、生成し、進み、
繰り拡げられてゆくのに、これにたいして、
特に一人の個人が影響を及ぼすことなど
まったくないのだ」(P64)

「詩とは言葉を通じての〈全一〉の回想、
もしくはその反映だ」(P64)

「齢を重ねてきた者にとって重要なことは、
もはや平坦な時間の延長の問題ではなくて、
刻一刻をどれほど深め得るかということだ」(P65)

「シュアレスをいつでも肯定できるわけではないが、
ときに彼のテクストは非常に美しく、
またときに非常に真実だ」(P71)

「現存と不在との隔たりを
超えることができるのは詩や芸術だけだ」(P79)

「苦しみがなければ、詩は何処にあろうか。
何処に棲み得ようか、流謫の身で、
追放された島にいるのでないとしたら?
この島はどの国にも、どの大都会にも、その真っ只中にある。
他の人びとの目からすれば、病人でないような、
心において罪人でないような、狂人でないような
大詩人を見出すのは困難だ(中略)
詩人とは聖者同様世間にとっては狂人だ。
聖者は十字架の狂人であり、詩人は精神の、
そして、精神が顕す美の狂人だ」(P81)

「しばしば宗教的な組織や体系のなかでは、
もっとも宗教的なものが排除される。
もっとも宗教的なものとは神、
あるいは神的なものとの直接的な認識、
あるいは接触である」(P83)

「詩的体験とは
私たちと世界との関係のなかに生じる合一の体験なのであり、
それを抜きにしては根元的な肯定――
同時に世界と存在との――はあり得ないのではないか。
存在を肯定するとは、小さな〈自己〉を肯定することではなく、
むしろ全一性のなかに解消、
あるいは融合した〈自己〉を感じることだ」(P84)