多くの人に支えられて

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あなたの人生を豊かにする良い思い出を、
この小さな本に閉じ込められることを望みます
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医師、オルガン奏者、神学者、哲学者、ノーベル平和賞受賞者として知られる、アルベルト・シュヴァイツァーの自筆である。1955年10月18日、英国の支援者に宛てて書かれたもの。文庫本サイズのオートグラフブック(サイン帳)に書き込まれている。

「私は、この小さな友情の本に、最初の名前を記します。
今後ほかの方々も同じように名前を記入され、
あなたの人生を豊かにする良い思い出を、
この小さな本に閉じ込められることを望みます。
献身的なあなたのご多幸を祈って」

シュヴァイツァーは1875年1月14日、当時ドイツ領だったアルザスにルター派の巡回牧師の子として生まれた。哲学者ジャン=ポール・サルトルは親戚に当たる。

8歳のころ、人生の方向性を決定付ける体験をする。シュヴァイツァー自身、次のように回想している。

「仲間の少年にそそのかされて、
朝日の中で美しくさえずっていた
数羽の小鳥にしぶしぶパチンコの狙いを定めた。
だが私は、なにものかに心をつき動かされて
的をはずそうとひそかに誓った。そのときであった。
教会の鐘が、陽の光と小鳥のさえずりの中に鳴り出したのである。
……それは私には天の声に聞こえた。
私はパチンコを放り出し、しっと声を出して小鳥を追い払い、
仲間のパチンコから小鳥を守ってやった。そして家へ逃げ帰った」
(ほるぷ出版『世界伝記大事典【5】』P110)

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1893年、シュトラスブルク(ストラスブール)大学に入学。神学と哲学を学ぶ。1896年5月のある朝、30歳から直接奉仕することを決心。1902年にストラスブール大学の神学部講師となる。1904年秋にコンゴ地方の窮状を知り、アフリカ行きを志す。1905年、30歳の誕生日に医療奉仕の決心を固め、冬学期からストラスブール大学の医学部で聴講。1910年12月に医師国家試験に合格した。

1912年6月、ヘレーネ・ブレスラウと結婚。パリで熱帯医療を学び、伝道協会に志願。当時医療に困難を抱えていたガボンのランバレネで活動することを決め、1913年4月に現地に到着した。

1915年9月、オゴウェ河を遡行する旧式の蒸気船の甲板に座っていたシュヴァイツァーは、砂州にいる4頭のカバに目がとまった。その瞬間、「〈生命の畏敬〉という言葉が閃光のように私の心を突きさした」(同書 P111)という。小鳥をパチンコで狙撃するのを拒んだ少年時代からおよそ30年。長年にわたる思索と奉仕活動を経て、「生命の畏敬」という概念にたどりついた。

第一次世界大戦のため活動の中断を余儀なくされたものの、その後は活動を再開した。病院の運転資金を得るためヨーロッパ各地で講演やオルガン演奏を行い、著書を出版。シュヴァイツァーの活動に対する認知が高まるにつれて世界各地に支援者が現れた。その献身的な医療奉仕活動が評価され、1952年度のノーベル平和賞を贈られた。

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1957年4月には、オスロ放送を通じて核兵器の危険性についてアピール。バートランド・ラッセル、パブロ・カザルス、ノーマン・カズンズらと反核運動に参加するようになる。1962年4月、当時のジョン・F・ケネディ大統領に核実験の停止を求める手紙を出し、ケネディから核実験の部分的停止について交渉が進んでいることを伝えられる(翌年、部分的核実験禁止条約が成立)。

1965年9月4日、ランバレネで死去。享年90歳。同地に埋葬された。

主著は『水と原生林のはざまで』。イエス、カント、ゲーテ、バッハなどの研究書も評価が高い。邦訳には、白水社『シュヴァイツァー著作集』全20巻、新教出版社『生命への畏敬 アルベルト・シュワイツァー書簡集』などがある。

日本との関わりも面白く、神戸風月堂の銘菓「ゴーフル」を愛し、シュヴァイツァー家には内村鑑三の筆になる扁額がかかっていたという。