バスクの血潮

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君が君自身と交わす対話くらい真の対話はない。
そして、この対話はただ、
君が独りあるときにのみ交わしうるのだ。
孤独にあるとき、しかも、ただ孤独にあるときのみ、
君は君自身を隣人として認めることができるのだ。
そうして、君が自身を隣人として認めない限り、
君は君の隣人に他の我を見るに至らないであろう。
もし君が他の人々を愛することを覚えたいならば、
君は君自身の中に遁れよ(P45)
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ウナムノ著/花野富蔵訳『随想録』第一書房

本書はスペインの哲学者・詩人ミゲル・デ・ウナムーノ(ウナムノ)の随筆をまとめた一冊である。1941年(昭和16年)刊。「彼はシェストフのように否定しないで肯定する。オルテガ・イ・ガゼットのように傍観しない。全身血を浴びながら闘争する思想の闘牛士である。本書は彼の思想的中核を最もよく表現した種々なる哲学的考察と思索的断片を収めたもの。痛烈なるアフォリズムあり、青年に与ふる熱烈なる行動の哲学あり、それらの独創的な思索は、あくまで詩人的な情熱に彩られて、力強い哲学的思想詩を構成している」というのが、出版社が付けた帯の売り文句。哲学者というより、熱情的な詩人の言葉が収録されている。

ウナムーノは1864年9月29日、バスク地方の港町ビルバオに生まれた。実存主義的な観点から人間や世界を論じたことから「スペインのキルケゴール」の異名を持つ。

1880年にマドリード大学に入学。原書で読書するために16カ国語を学び、1884年に文学・哲学の博士号を取得。1890年にサラマンカ大学のギリシア語・ギリシア文学教授になる。

1901年から1914年までサラマンカ大学の総長を務めるが、第一次世界大戦が勃発すると政治的な活動を理由に罷免される。1924年にはプリモ・デ・リベーラの独裁に反対したためカナリア諸島へ追放。脱出後パリへ逃れる。

プリモ・デ・リベーラが失脚するとスペインへ戻り、共和制の指導者の一人として国会議員に選出、サラマンカ大学の終身総長に任命される。1936年にスペイン内戦が勃発すると、ウナムーノの周囲は反乱軍を指揮するフランコのファランヘ党支持に染まる。ウナムーノは沈黙を守っていたが、大学での祝典行事がフランコの政治宣伝に利用されると「ファランヘ党員たちは単に野蛮な力を持っているだけで、彼らの側には‘理性と正義’が欠けている」(ほるぷ出版『世界伝記大事典【2】』P235)と公然と非難。ただちに総長職を剥奪され、自宅に軟禁された。

1936年12月31日、ウナムーノは軟禁状態のまま心臓発作で死去した。彼はフランスの作家ロマン・ロランと親交があり、ロランは友人への手紙に「ウナムノはたしかにノーベル平和賞にあたいします」と書いていた。

※みすず書房『ロマン・ロラン全集【35】』所収「したしいソフィーア」宮本正清・山上千枝子訳 P594

【本書から ※現代表記にあらためた
「来る日も来る日も、
ぼくは大学教育と学習との職務で、
ぼくの魂を培い、他の若者たちの魂を培ってきた。
教えることは、要するに、習うことである」(P1)

「汝等、言葉を信じよ。
言葉は生きている物であるからだ。
汝等、神と最高の事物と最高の言葉との人間である
言葉の人間になれ」(P9)

「ただ澱んだ水のみが花を咲かせる、
そして水車の用水溝で臼を回して
小麦粉をこしらえる水は咲かせない。
産業は流れる水を要求するが、
詩には静まっている水でたくさんだ」(P10)

「神は無限で永遠のわが『我』である、
そして、『神』の中に、『神』によって、
ぼくは在り、生き、かつ、死ぬのだ。
自分自身を求めるよりもむしろ、
自分自身の中に神を求めるのだ」(P11)

「われわれが太陽を背にして歩くとき、
われわれに太陽を見せないものは
われわれの身体そのものである。そうして、
われわれはただわれわれ自身の影によってのみ、
やっと太陽が分かるのだ」(P11)

「便利さに対する執着ほど精神の凡俗さ、
魂の卑俗さ平凡さを示すものはない」(P14)

「もし果てしのない野原の中で
ほんの2、3日ばかり過ごさなければならなくなったとき、
たちまち退屈してしまうような人間は、
まことに不幸なるかなだ!
隣人たちの騒々しい物音やせかせかした活動から
わが身をはっきり遮断できない人は不幸なるかなだ!
なぜって、そうした人は自分自身を発見しないでいるし、
少なくとも発見しようとすることを知らないでいるし、
自分が他の人々に反射しないと
自分自身を見ることができないからなのだ」(P18)

「ただ実務と享楽とだけしか話さない国民は、
やがて悲しむべき悲観論を発芽させ、
その根をひろがらす国民である。
飢餓の国民でなくて、それと異なった、
それよりなおよくない、飽食の国民である。
飽食と空虚の国民なのだ」(P25~26)

「ある者どもからは僭越者と呼ばれ、
他の者どもからは魔王のごとき者と称される
この『ぼく』」(P31)

「ぼくたちはすべて
ぼくたちの住んでいる環境の凝結である」(P32)

「信仰はレアリティの源泉である、
なぜなら、それは生であるからだ。
信ずること(Creer)は、
創造すること(Crear)である」(P37)

「知っているということは、
誰にとっても大したことではない。
思想はぼくにとって軽蔑すべきものだ。
ぼくが尊重するのはただ人間だけだ」(P39)

「愛は追憶と希望とに生きることができる。
憎は現実の実在を必要とする」(P44)

「ただ孤独のみが、
ぼくたちを互いに孤立させる羞恥の厚い外套を除く。
ただ孤独にあるときのみ、ぼくたちは互いに出会う。
そうして、ぼくたちが出会うとき、
ぼくたちは孤独にあるすべてのぼくたちの兄弟と出会う(中略)
ただ孤独にあるときのみ、
ぼくたちの心臓は万有の心臓に高揚する。
ただ孤独にあるときのみ、
ぼくたちの魂から、至高の懺悔にむかう
救世主のごとき讃美歌が湧き起るのだ」(P44~45)

「君が君自身と交わす対話くらい真の対話はない。
そして、この対話はただ、君が独りあるときにのみ
交わしうるのだ。孤独にあるとき、
しかも、ただ孤独にあるときのみ、
君は君自身を隣人として認めることができるのだ。
そうして、君が自身を隣人として認めない限り、
君は君の隣人に他の我を見るに至らないであろう。
もし君が他の人々を愛することを覚えたいならば、
君は君自身の中に遁れよ」(P45)

「人間の中で最も偉大なるものは詩人、抒情詩人、
すなわち真の詩人である。詩人というものは
神に対する秘密をその胸に持っていない人間である。
そうして、その懊悩、その恐怖、その希望、
その追憶をうたうとき、それらのものを
一切の虚偽からすっかり洗いざらしてさらけだす。
彼のうたは君のうたである。ぼくのうたである」(P46)

「議会はただそれを構成する党派が
互いに真剣に闘うときにのみ豊穣である。
そうして、スペインの議会内でそういった闘争がなく、
すべての者が内幕で互いに了解しあい、
対立の滑稽なお芝居を演ずるために演壇に現われるのだから、
不毛である」(P48)

「闘争すべし、真剣に闘うべし、
そして、闘争を超えて、闘争によって、
闘争者を結びつける団結を探究すべし」(P48)

「多くの悪を行うよりも
わずかでも全を行う方が優るといわれる。
しかし、ぼくは、わずかしか行わないものは
善を行わないと思う。豊かに活動する人間が行う善は、
めったに行動したがらない人間の善よりも、
たとえ結果において多くの悪が生じても、
その善ははるかに数が多いのである」(P49~50)

「真とは何であるか。
真とは心臓全体、魂全体で信ずることができるものだ。
心臓全体、魂全体で何かを信ずるというのは何のことか。
それと一致して行動することだ」(P53)

「言葉は行為である。
しかも、最も内的な行為、最も創造的な行為、
行為の中で最も神聖な行為である。
そのとき、言葉は真を語る言葉である」(P53)

「棒打だ! 棒打だ! 棒打だ! と
繰り返している者どもを前にして、真を語るべきなのだ。
常に、真を繰り返すべきだ。
何よりもまず、棒よりも前に、ぼくたちを打つ前に、
ぼくたちを打つときに、ぼくたちを打った後にも、
真を繰り返すべきだ。真だ! 真だ! 真だ! と
繰り返すべきなのだ(中略)棒が真を破壊する前に、
真は棒を破壊するであろう」(P55)

「饒舌にして喚きたてる者は空想ある者でなく、
活気あるものでも鋭敏なものでもなくて、
その人は知識人なのである。
早解りのする人間は警戒しなければならない。
なんか、すぐ解ったらしくみえる人々は、
大抵いつも間違ってそれを理解しているのだ」(P60)

「嘲笑されるかもしれないとの恐怖に、
個人または国民がとらえられたとき、
一切の英雄的行為は消え去るのだ」(P148)

「一切の進歩の最も強力なバネである進歩的な要素は
宗教的熱意であり、信仰である」(P158)

「何事であれ、
軽蔑的に嘲笑する者どもの批評に抗する人々は
常に賞讃さるべきだ」(P171)

「(※ホイットマン等の人格の秘密は)
これらの人たちが、たとえ優しくて人間的な、
なんらかのユーモリズムに多少不足しているとしても、
まじめで、根本的にまじめで、深くまじめである
という点に立脚している(中略)
それら高貴な魂の熱誠こそ
人生の崇高な真摯さを他人に感得さしたのだ」
(P201~202)